何年医師通いしても良くならないアナタに捧ぐ


私は外来で患者さんと相談する時、「必ず治りますよ」とは絶対に言いません。そういう医師もいるかもしれませんが、そんなことを言えるはずもありません。私の説明を十分に理解していただいて、「それであれば希望を持って代替医療でやってみたい」とおっしゃる患者さんにはできるだけのサポートをします。

これまでの経験からして、少なくとも、西洋医学での治療と比べて延命できる確率は高いと思います。
QOLも良くなる確率が高いです。うまくいけば治ってしまう可能性もあります。そうした実績があります。

ですが、目の前にいらっしゃる患者さんがどうなるかは断言できません。あくまでも確率や可能性といったことであって、例えばがんの進行が止まるなどという保証をすることはできません。このあたりをご理解いただけないと後にトラブルになる可能性があります。良い結果が出なかった場合に、患者さん側も
騙されたということになってしまいますから。

これからは、患者さんが西洋医学も東洋医学もよく理解して治療法を選ぶ時代だと思います。そして、もしも東洋医学を選ぶということであれば、患者さんが主体的にそれに取り組む姿勢が不可欠です。ですから当然、自らが選択した治療法について、ある程度、理解していただくことが必要になってきます。

これまでは、たまたま出会った医師に全部任せていればいいだろうという時代だったかも知れません。でもこれからは、患者さん自身が積極的に勉強して最低限の知識を身につけ、納得して医療を選ぶという時代なのです。まさに患者さん参加型の医療です。それができないという人には東洋医学は向かないと思います。

それから、たまにあるのですが、この漢方薬さえ飲めば病気が簡単に消えると思っている人も困ります。お話してみて、ああ、この人は東洋医学を全然わかっていないなという人はお断りしています。代替医療とか統合医療とかいう言葉が、いくらマスコミで取り上げられるようになったとしても、まだまだ理解していただけない人たちも大勢いると思います。いつの時代にも誤解はあるだろうなとも思います。

かつては米国でも、「代替療法なんてインチキなものをやっているのは、どうせ学歴の低い知性の乏しい連中だろう」などと思われていた時代がありました。ところが実際には、蓋を開けてみたら逆だったわけですが。ある程度インテリジェンスの高い人たちが主体的に代替療法を選んでいるということが分かったのです。

私たち人間は、生きていれば必ず病気になるものです。もし読者のみなさんが病気になったとしたら、症状を改善し、健康を回復するためにはどうすべきかを決めなければなりません。そして、それを決めるのは自分の責任だということをご理解いただきたいのです。

その責任を回避してしまうと、みなさんの代わりに誰かが決めることになります。多くの場合は、たまたま何かのきっかけで出会うことになった医師ということになると思います。しかし、医師に診てもらうことが、みなさんにとって必ずしも最良の選択になるとは限りません。どうしてもこのことをお伝えしたくてこの本を書くことにしました。みなさんがいざという時に判断を誤らずに済むように、現代の医療の中心に据えられている西洋医学とは、何が得意で、何が不得手なのかを知っていただくことが、まずは適切な治療法を手にするための第一歩だと考えております。

まやかしの予防教育に騙されるな


現在の病医院で行われている治療のほとんどは、症状を緩和する対症療法であって、原因そのものを解決するものではありません。しかしハッキリ言って、その対症療法の過程でのべつ幕なしに処方される薬の副作用は国民にとっては大いなるリスクなのです。


しかしこの裏には、病医院は予防ではメシが食えないという事情があります。病医院や医師は、いくら病気の予防に力を注いでも儲からないどころか、逆に減収してしまうのです。この点を患者さんは十分に認識しておく必要があります。


日本の医療制度というのは出来高払い制を敷いていて、患者をすぐに治してしまうと収益が上がらないしくみになっているのです。ダラダラと治さずに通院させたり、最初の処置がダメだったからといって別の処置を施したりする方が儲かってしまうという代物なのです。
もし、高血圧や高脂血症やがんや糖尿病患者が激減すれば、医療関係者の懐には北風が吹き荒れることになります。だから病気の予防に本気で取り組もうとする医師は少ないし、医学部のカリキュラムにも予防医学は登場してこないのです。


本来あるべき医療を考える上では、国民医療費が毎年1兆円ずつ増えるのはどうしてなのかという真の原因を調べたうえで抜本的な対策を講じないと駄目なのですが、これまでに述べてきたように、自らの利権が消滅するのを恐れ、真剣にこの問題に対峙しようとする人はほとんどいないのが実際のところです。


国民医療費適正化などと叫びながら、だれも真剣に適正化などしたくない。むしろ、ちょっとずつ増えていってくれた方がありがたいと思っているひとがほとんどなのではないでしょうか。そう思わずにはおれないほど、わが国には医療や介護に対するビジョンや戦略がありません。それは、戦略を策定する側のひとたちにとっても、戦略がないほうが望ましいからにちがいありません。


いまの日本では「治療より予防を」という言葉だけが一人歩きして、国は具体的なアクションプランを一切提示しません。その結果、個人的に予防に投資しようとしたまじめな人たちが、眉唾物の健康食品やらサプリメントやらの悪徳商法にひっかかってしまっているというのが哀しい現実です。今日のわが国医療の迷走ぶりは、理念なき医学教育や診療報酬体系の矛盾といった国家レベルでの戦略のなさがもたらした相乗的スパイラル現象と言ってもいいでしょう。

健康革命のすすめ


借金大国になった日本にとって、医療費の増大は頭の痛い問題です。医療費の財源は底をつき、医療保険制度崩壊も時間の問題と言われています。さらなる高齢化、しかも農薬や添加物まみれの食べ物で育った世代が歳を重ねていけば、医療費が青天井に増大したとしても不思議ではありません。ただでさえ少子化で、しかも環境ホルモンの影響でさらに子どもが減れば、働いている人たちが払う保険料は大変な額になることは容易に想像できます。


それでも、病院や製薬会社が自らの利益を減らしてまで予防に取り組むかどうかは疑問だし、すでに厚生労働省は医療費の自己負担率引き上げにかかっています。このままでは、お金がないと医師にかかれない時代が来てしまうかもしれません。だから国民が変わるしかない。そして、変わるためには、まずは真実を伝えることが必要だ。私はそう思っています。


西洋医学を中心とする現代医学の限界について、わが国の矛盾だらけの医療システムについて、そして、健康を損なう原因を作ったのも改善のカギを握るのもすべては自分自身のなかにあるということについて。これらについて、これから高齢者になる団塊世代や若い世代にきちんと伝えていくことが重要です。

まずはこれまで常識だとされてきた医療についての真実を知ること。みなさんを健康にしてくれるのは、決して医師や病医院ではなく、みなさん自身なのです。こたえはすべて、みなさん自身のなかにあるのです。読者のみなさんの健康への第一歩は、これを知ることから始まるのです。そして今、みなさんは健康革命のスタートラインに立ったのです。これこそが、全編を通じて私が読者のみなさんにお届けしたかったメッセージです。

患者さんのために…、西洋医学+東洋医学=統合医療


もうちょっと踏み込んだ話をしましょう。仮に日本の医師たち、つまり西洋医学側の人たちが、科学的根拠が乏しいといって東洋医学を否定するとしたら、これはもとより東洋医学の責任ではありません。それこそ近代医学をもってしても心や命といったものをいまだに解明できていないからに他なりません。科学で解明されていない対象に向かい合っている東洋医学に、科学的根拠が乏しいのは仕方のないことですからね。なんか禅問答みたいになりましたが、責任があるとすれば、それは東洋医学にではなく、西洋医学を生み出した科学の未熟さにあると私は認識しています。

少しは欧米の医師たちの柔軟さを見習ってみてはどうでしょう。彼らは世間体や面子よりも、価値の有無でスタンスをころころと変えてきます。患者さんのために良いものは積極的に取り入れる。それはビジネス的にいっても良いことなわけです。にもかかわらず、日本の西洋医学は相変わらずエビデンスがどうの言って東洋医学を斥けようとする。これが建前であることを願います。患者さんにしてみたらせっかくの援軍だというのに、医師たちのつまらない意地のために東洋医学の手を借りるチャンスを失ってしまったら泣くに泣けないでしょう。

一方で東洋医学に関わる人たちについても、感心できない部分があります。まるで西洋医学がそうしているのと同じように「西洋医学はダメ。東洋医学がすべてを救うのです」とか、しゃかりきになってエビデンスを追求しようとして「いや、東洋医学にも科学的裏づけがこんなにあります」とか言っているようでは、問題はいっこうに進展しないと思います。そもそも西洋医学が得意とする土俵で勝負することに意味はありません。それはいくら深追いしても時間と手間が無駄というものです。

「東洋医学には、エビデンスに乏しい分、直観というものがある」と先述の帯津氏は言っています。それは、フランスの哲学者でノーベル賞も受賞しているベルグソン(
18591941)が言うところの「生命の躍動から歓喜にいたる哲学的直観」だそうです。東洋医学を提供せんとする医療者たちはこの点こそを大いにアピールすべきです。どうも日本では、西洋医学も東洋医学も、お互いを敵視してしまうようなところがあって困ります。両者は敵対するものではなく、患者さんのために協力し合うべきものなのに。

本当に良い医師というのは、患者さんに良いと思うものをいろいろと組み合わせて提供する柔軟さを持っているものだと思います。すでに欧米では、西洋医学と東洋医学双方の良いところを統合して治療に生かしていく方向性が完全に明確になりました。この流れは、医学というものの対象が、従来の「身体」から「心と命」に転換し始めたことを意味します。この考え方の下に展開される医療を『統合医療』と呼ぶのですが、私は、統合医療とはベースにしっかりとした西洋医学があって、そこに西洋医学では足らない部分を東洋医学が補完することで初めて成り立つものだと考えています。

東洋医学に対する医師の建前と本音


さて、がんをはじめとする生活習慣病や、エイズ、アトピー性皮膚炎などに対して、西洋医学は相変わらず手を焼いています。そして、これらの病気に共通するのは、身体だけに関わる病気ではなく、心や命にも深く関わる病気だということです。だとすると、西洋医学がこれらの病気に対応できないのは当たり前の話です。心や命の問題というのは、西洋医学が科学するために真っ先に切り離したものだからです。

これに対して東洋医学とは、多かれ少なかれ、人間の心や命にはたらきかける伝統的な方法です。病気に苦しむ家族や仲間たちを前に、みんなで祈ったり身体をさすったりするという行為が、どう考えても西洋医学とは相容れないものであることはわかります。ですが、死の形が変化してなかで、どうもこうした人のスピリチュアルな部分に働きかけることで、患者さんが穏やかになったり、症状が改善したりということが多々あるのもまた真実なのです。

ですから、欧米のみならず、日本でもここ数年東洋医学に対する一般の人たちの関心が非常に高まってきたのも当然のことと言えるかもしれません。いや、西洋医学側の医療者たちもその手の集いで実に多く見かけるようになりました。もしかすると、日本人特有の建前と本音があって、本当は多くの医師たちも東洋医学の良いところは取り入れるべきだということに気づいているのかもしれません。だとすれば、それはとても嬉しいことです。彼らの胸のうちに芽生えたその気づきを、どうか読者のみなさんたちに後押しして欲しいと思います。ちょうど米国で医療を利用する側の人たちのムーブメントが病医院や医師たちを突き動かしたように。

帯津式統合医療モデル


先述したように、統合医療とは西洋医学と東洋医学とを上手く組み合わせた相互補完的な医療のことを言います。今現在の日本で、この統合医療でもっとも有名なのが、埼玉県川越市にある
帯津三敬病院の理事長の帯津良一氏だと思います。帯津院長は東大医学部を卒業して以来、西洋医学や手術というものに限界を感じていたそうです。

そして、都立駒込病院で外科医長をやっていた時代についに決断して、中国に渡って本格的に中国医学を学び、
1982年、自分の信ずる医療を行うため独立開院したのです。その帯津三敬病院では、西洋医学に中国医学、気功、瞑想、食餌療法、心理療法などを加味した総合的な治療法が実践されており、全国からがん患者さんたちが集まっています。そして、西洋医学で見放された患者さんたちが、免疫力を高めることで自らの自然治癒力を取り戻していかれた数多くの事例を提供しています。

「治療の決め手は患者さん自身のなかにある免疫力を引き出すこと」と、帯津院長はたくさんの著書を通じて発信しています。そして、免疫力を引き出すためにもっとも大切なのは患者さんの心だと言います。病状を改善するには、どんな薬よりも充実した心でいること。そのために病院が提供する気功などの心理療法に参加してもらうようにしているそうです。

心のつぎに大切なのが食事です。病院で出す食事は玄米食が中心といいますが、あくまでも基本は自宅での食生活にあるとして、管理栄養士の指導の下、食事に対する考え方と具体的なレシピについてしっかり身につけてもらうようにしているとのことです。

帯津三敬病院には、初診のがん患者さんだけで、年間に
1000人近くが訪れてきます。帯津院長は、カルテと紹介状に目をやりながら、膝詰めで対話するように統合医療の考え方や、同院の治療方針を説明します。がん治療の基本は免疫力を高めることです。そのために、まずは精神の高揚が大事であること、つぎに免疫力を高める食生活を徹底することなど。

これらひと通りの指導を行った上で、手術したほうがいいのか、それとも化学療法剤や放射線療法を行ったほうがいいのか、漢方・鍼灸・健康食品をどの局面で組み込むようにするのか等々について、患者さんやご家族の希望を聞き入れながら治療方針を決めるそうです。「医師と患者が手のうちを見せ合って一つの結論を出して行く」(帯津院長)手続きがあって初めて患者も納得し安心すると仰っています。帯津院長の考え方に触れて、私がクリニックで行っているやり方とまったく同じなので、非常に嬉しく感じたものでした。


2009
1121日に高野山で行われた『21世紀医療フォーラム』で、帯津院長はさらに興味深いお話を披露してくれました。「開業して以来、これまでにカルテを作った患者の約7割ががん患者。がん患者の改善例を総合的に分析してわかったことは、症状が改善するかどうかは患者の精神状態に依るところが極めて大きいということ。前向きな人ほどNK細胞も活性化しやすいが、マイナス思考の人はどんな治療を施しても良い結果が得られない。当院ではできる限り多種多様の治療を取り入れていて、精神状態が安定し、がん抑制効果が表れる患者さんは、自分はこれだけのことをやっているんだという自信や達成感が裏づけとなっている」ということでした。

医療の原点


さて、いよいよ最後の章になりました。ここまで長いことお付き合いをいただきありがたく思っています。日本における今日の西洋医学についていろいろと書き勝手をお話ししてきましたが、多くの医療者とざっくばらんに話してみると、みな本質的には西洋医学の問題点、東洋医学の問題点に気づいているようなフシがあります。そして、両者が合体することで、患者さんたちの健康というものに大いなる可能性が出てくるだろうという期待感を抱いていることもわかります。

ただ、個人としてはそう思っても、即行動に移せるかということになるといろいろな問題が絡んでくるということなのです。どちらかと言うと古い体質を持った医療の世界には、組織における上下関係とか全体調和みたいなものを無視しづらいところがあるのです。

だから何とか、読者のみなさんたち医療を利用する側からも一石を投じて欲しいと思うのです。風邪をひいて近所の病医院の情報を集めるとき、検査を受けるとき、診察室で医師と向き合ったとき、運悪く入院しなければならなくなったとき、手術を勧められたとき。こうしたさまざまな場面で医療というものとの関わり方を見つめなおして欲しいのです。ご自身と愛するご家族の健康と幸せのためにも。

ここで少し医療の歴史について考えてみます。古代ギリシャの医師ヒポクラテスは、医学の始祖として今も世界中で崇められています。その偉大な業績は、『ヒポクラテス全集』として今日の医師に伝えられています。ヒポクラテス以前の医療は、古代ギリシャの医神アスクレピオスへの信仰を中心とした魔術的なものでした。治療を求める者は、アスクレピオスを祭った神殿に何日もこもって、神官から儀式的な治療を受けていたのです。つまり、医療の原点は極めて非科学的な『祈り』であったのです。

ヒポクラテスはこうした神がかり的な治療を否定。「病気の原因は人間の知恵で理解できるはず」として、病気は体液のバランスが崩れることで起こると説きました。東洋医学の思想に通ずる考え方です。さらに、人間の身体にはそのバランスを回復させる機能が元来備わっており、医師の役目とはそれを手助けすることだとして、医学を自然科学として発展させる礎を築いたのです。

しかし、ヒポクラテス医学には、こうした科学的側面とは別にもうひとつ重要な点があります。それは医療者に求めた高い倫理性です。「医学に求められるものは、科学する心と人間への愛に他ならない」と言い切ったヒポクラテスは、医業への忠誠と献身、有害致死的な医療の禁止、禁欲、守秘義務等の戒律を『ヒポクラテスの誓い』として残しています。そこに記載された内容は現代にあっても不変の真理だと思います。世の医師たちは、改めて自問自答すべきかも知れません。

先日、国立がんセンター中央病院院長を辞任した土屋了介氏がこんなことを仰っていました。「がんセンターの部長クラスのなかにも「ヒポクラテスの誓い」さえ守れない医師がいるのは非常に不愉快。そんな医師を排除できなかったことは、辞任するに当ってもっとも反省すべき点だった」。これを聞いて、もっとも患者さんの心に寄り添って然るべきがん治療の中心にある大病院の医師ですらこういう状況なのかと、ちょっぴり嘆かわしい気持ちになりました。

ヒポクラテスの話を持ち出すと、「彼が病気ではなく病人を見る“全人的医療”で成功を収めたのは、その時代には病気を科学的に分析して診断や治療を導き出せるようなテクノロジーがなかったから」と、時代錯誤とでも言いたげな医師がいます。しかし、
18世紀後半に近代病理学が誕生した以降であっても、科学的データのみならず、ケアマインドとコミュニケーションをもって全人的医療を実践する医師もあったはずです。

病理解剖学の父モルガーニが死んだ
1771年は、わが国の医学の分岐点とも言える年でした。この年に行われた日本初の解剖現場に立ち会った杉田玄白は1773年に解体新書を出版し、日本における近代医学の扉を開きました。彼の功績は、世界初の全身麻酔手術で知られる外科医、華岡青洲に引き継がれました。米国の医学者らより10年も早く偉業を達成した彼の信条がふたつあります。


ひとつは『内外合一』といって、「医術は本来、内科・外科、漢方・蘭方と区別することなく、患者にとって最適な方法を選ぶことが大切である」。もうひとつが『活物窮理』といって、「人の身体はそれぞれ違うため、単に昔からの習わしに従って治療するのではなく、個々の人間にあった治療法を研究するべきだ」というもので、これらはまさしく、患者さん個々の特性に配慮した『統合医療』を医療のあり方として表現したものに他なりません。

医療崩壊は医師を野放しにしたツケ

2007年暮れあたりから、救急車たらい回し事故が盛んに紙面を賑わせました。高齢者に端を発して小児、妊産婦へと波及。結果として行き着いたのが、そもそもわが国の医師の絶対数が足らないのだという“医師不足説”です。

少子化対策が叫ばれているにもかかわらず,医療現場では産科医や小児科医が不足しており,子どもを産むこと自体がリスクとまで言われるようになってしまいました。また,麻酔科医の不足により,地域の中核病院でさえ緊急手術ができなくなりつつあります。救急医療や精神科領域においても同様です。

プライマリーケアを必修化した「新医師臨床研修制度」が地方の医師不足を加速する結果となったのは皮肉ですが、医師不足や医師偏在はわが国の理念なき医療政策の結果としか言いようがありません。地域ごとに、いかなる診療科の医師を、どれくらい配置していくのか。いかなる機能の病床や病医院をどれくらい配置していくのか。つまり、『真の地域医療計画』がなかったがゆえに、医師たちは好き勝手に活動することができたわけです。

いくら高尚な志を持って医学の道に進んだとしても、悪貨は良貨を駆逐してしまうものです。ましてや医師という商売は、いくらでも楽な道を選ぶことができる。患者の身体に触れることもなく機械的に適当な処方をしている医師であっても、高度な手術を年間何百回とこなしたり、救急医療の現場で全身全霊身を粉にして働いたりしている医師たちと評価基準が一緒という矛盾が、患者にとって好ましくない医師たちを蔓延らせる要因になっているのではないでしょうか。

とくに、国公立大学の医学部出身者たちは国や自治体の税金で医師になれたということを思い出して欲しいものです。医師という職業は国や地域にとっての貴重な社会資源です。であるならば、例えば卒後5年くらいは、医師不足の地域で活動することを義務化して国民に報いるべきだと思います。

社会資源たる医師を国がコントロールせずにきたがために、巷には必ずしも患者のためにならない医療を提供して生業を立てている医師がたくさん蔓延ってしまいました。それらを放置したまま、わが国はまたまた場当たり的な愚策『医学部定員増』を決定しました。

現状でも毎年8千名が医師免許を取得し、4千名の医師が新たに市場参戦してきます。デビューした医師には何が必要かと言えば、答えは患者に他なりません。食べていくためにはどうしたって患者が必要ですから、あの手この手を使って患者を作るわけです。目の前に座っている患者の病気を治さなくても、とりあえず治療していればいい。そんな医師もかなり存在するのではないでしょうか。


この問題を解決せずに医師の数だけを増やすというのでは片手落ちと言わざるを得ません。これでは病気の根本原因を無視して目に見える患部だけを切り取っているどこかの西洋医学と同じです。しかし、
それをわかっていながら誰も手をつけないできたのが日本という国なのです。私たちは、本当に場当たり的で戦略のない国で暮らしているのです。

医師不足のウソ


知人がやっているNPOの学習会で、ある参加者から質問が出ました。「テレビの報道などで医師不足とか言われているけれども、自分にはその実感がない。だって、通りを歩けば病医院だらけではないか」というのです。これは鋭い指摘だなぁと思いました。「私の認識では、医師が不足しているという話は、私たちが本当に必要としている分野に医師が足らないという意味で、必ずしも必要ではない分野には医師が余っているかもしれませんねぇ」とお答えさせていただきました。

ちなみに、必要なのに医師がいない分野とは、地域差はあるでしょうが、救急医療、周産期および小児医療、在宅医療などではないでしょうか。逆に、不要なのに医師が余っている分野とは、地方大学の付属病院や自治体病院、全国にある中途半端な規模の総合病院、都市圏に溢れている内科系病医院などでしょうか。まぁ、あくまでも私見ですが。

実はこのあたりのことは霞ヶ関でも勘案済みであるようです。政権が自民党から民主党に移行しても、医療費適正化の方向性は踏襲されるそうで、医療費適正化のための具体的施策としては、毎度お決まりの診療報酬マイナス改定だけではなく、国民に医療との適切な距離感を認識させるためのマル秘プロジェクトも動き出すらしい。そんな噂というか、気配みたいなものが耳に入ってきています。

ひとことで言うならば、必要でない医療を利用している人たちを目覚めさせて、病医院から引き剥がそうという情報戦略みたいなものでしょうか。そして、患者を引き剥がされてしまった病医院のマンパワーを、地域にとって本当に必要な分野へ再配置しようというシナリオが作成されているようです。

生と死をつなぐウェルダイイング


さて、日本の西洋医学の現状は、いまだ最新の知識と技術を前面に出して、自然に反してでも病気を除去しようとする手段を提供しているに過ぎません。同じ西洋医学であっても、欧米の多くの医師たちが、人間にとってもっとも根源的な自然とか生命とかを尊重する方向にシフトしてきたのとは格段の差があります。患者さんを救うべき立場にある医療のプロならば、時代と環境の変化に対してもっと柔軟にならないと患者さんに不利益をもたらしかねません。これは人間の死というものに対するスタンスの問題でもあります。

元・鹿児島大学神経内科の権威で、現在は名古屋学芸大学の学長である井形昭弘氏は、「リビングウィル」でお馴染みの日本尊厳死協会の理事長でもあります。井形氏によれば、「問題は死の瞬間を迎えるまでの苦しみだが、今ではそのうち身体的苦痛についてはモルヒネの経口投与によってほぼ完全に取り除くことができる。こういうところはまさしく西洋医学の優れたところ。ところが精神的苦痛については手つかずの状況」です。

同じ西洋医学でも、欧米ではすでにスピリチュアルケア(死に至る精神的苦痛を緩和させるためのケア)が根づいています。ホスピス病棟では、患者さんをサポートするチームのなかに必ずチャプレインと呼ばれる牧師がいて、患者さんの死に対する恐怖や家族の悲しみを癒す役割を果たしています。米国の病医院では、大規模なところは牧師などのプロフェッショナル配置が義務づけられているし、小規模なところでも患者や家族の求めに応じて牧師は自由に病床へ出入りすることができるそうです。

世界保健機関(
WHO)のホームページには、『健康』を「身体的・精神的・社会的、そしてスピリチュアルな意味で完全に良好な状態」と明確に定義しています。つまり、心とか魂とかいうものが健康にとって非常に大事であるという考え方で、これを実現するためのケアのことをスピリチュアルケアと称しているわけです。しかしながら、またしても「世界の常識は日本の非常識」で、この分野でも日本は大きく遅れを取っていると言わざるを得ません。

栃木県の益子町というところに、私が知る限り日本で唯一、医学博士でお寺の住職という田中雅博さんという方がいます。彼は由緒正しいお寺に生まれながらも医学の道に進みました。お父さまの急死をきっかけに、
1983年、勤務していた国立がんセンターを退職して大正大学に編入。仏教を習得して1990年に、自らが住職を務める西明寺の境内に普門院診療所を開設したのです。

田中氏は、「日本では明治維新の廃仏以来、仏教が疎外された結果、スピリチュアルな部分が欠落した文化が日本に根づいてしまった。日本の病院には、スピリチュアルな部分を担当する人がいない」という思いから、ならば自分がやるしかないと思い立ったといいます。これは素晴らしいことです。

がんに代表されるように、今日の病気は、人間の四苦とされる「生老病死」の『病』の部分が長期化する傾向にあって、患者が年単位で時間をかけながら死に向かっていくという特徴があります。「死」というものに対する恐怖や不安から患者さんたちにはさまざまな葛藤が生じ、場合によっては人格にまで支障を及ぼすこともあるものです。

となると、この死へ向かう過程では然るべきスピリチュアルケアが必要となってくるのは必然でしょう。残された人生の価値や
QOLをいかに高め、いかに穏やかかつ幸せに死へ誘導していくのか。これこそが終末期医療であり、医学の重要な役割のひとつだと思うのです。ですが今日現在、日本ではスピリチュアルケアは医療保険の点数にはならないもの、つまり必要のないものとして括られているのが実情です。

でも、スピリチュアルケアが難しいのは、提供者側がその方法論や技術論を確立実践したとしても、それを受け止める側にも準備を要するという点です。私としては、死を目前に控えた患者の内面的な事柄については、やはり宗教家の出番だと思います。患者さんのベッドの脇でその手をさすりながら時間をかけて傾聴する…。こんなイメージをするとどうしてもついついキリスト教の牧師さんの姿が浮かんでしまうのですが、ここはひとつ田中氏を見習って、仏教関係者にも積極的に取り組んでほしいところです。

明治以降、日常生活から切り離されてしまった感がある仏教ですが、教現在でも日本の葬儀の
9割以上は仏式です。どうも日本の医療現場では、「西洋医学は死ぬまで、死んだらお坊さん」というように生と死が断絶しているような気がします。現に臨終を告げた後の病医院側の対応は実に素っ気なくて事務的です。どことなく、患者さんが生きていたときと比べて温度差があります。

この部分を何とかお坊さんにつないでほしいと思います。日本の医療は、そもそも寺院で行われていたという史実があります。聖徳太子が建てたとされる日本で最初の国立寺院「四天王寺」には、敷地内に病医院、施設、薬局、学校がありました。原点回帰ではないですが、患者さんが生きているうちから、デーケン教授のいう『死の準備教育』を病院に出前してみてはどうでしょうか。あるいは医療も含めた総合寺院を作って、地域コミュニティの磁場になるというのはいかがなものでしょうか。


いずれにせよ、日本の西洋医学の現状は、肉体的・生物学的な身体治療には熱心ですが、精神面での関わりという部分が希薄であることは明らかでしょう。かつて死はある日突然に訪れるものでしたが、多くの死が非常に緩やかなものになってきたこれからの時代の医療は、ただ単に身体の痛みに対応するだけでなく、その人の心や魂や人生といったスピリチュアルなものにどのように貢献できるか。そんな観点から見直されるべき時期に来ていることはまちがいありません。死に向けた生をどうやって生きていくのかという『ウェルダイイング』のためにいかなる支援をしていくのかが、私も含めた医療者たちに与えられた最大の課題だと思っています。

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