命の値段


あと、ちょっと不謹慎かもしれませんが、患者さん本人にしてみれば本当につらいであろう手術や延命措置は、一方で、経営環境の厳しい病医院にとっては大きな収入源でもあります。これは重要なことです。終末期医療で、ご家族が「一分一秒でも長く」と要望したとしたら、カウンターショック(電気ショック)が
135,000円、24時間対応心電図モニターが11,500円。人工呼吸器装着のために必要な気管内挿管措置は15,000円、人工呼吸器は112,000円。強心剤の点滴は17,000円、心臓マッサージは12,500円…。あっという間に500万円とか1,000万円とかいう金額になってしまいます(ただし、差額ベッド代を除き自己負担額は概ね2割前後)。
 
大切な家族が生きるか死ぬかという状況で動転するのもよくわかります。お金のことなど考えている場合ではないかもしれません。しかしながら、最終的に患者さんが亡くなられた後で、病院からの請求書を見てたじろぐ人たちをたくさん見てきました。誤解を恐れずに言うと、こういう人たちは病院に出入りしている葬儀屋に言われるがままにその後のことを一任してしまい、一ヵ月後にまた云百万円という請求書を見て顔面蒼白になる危険性を孕んでいます。

延命措置に際して、患者さん側が求めない限り見積書は出てきません。ご家族が平常心を失った状態のなかで、日々延命治療に係る費用が膨れ上がっていきます。ホント驚くほどに…。医療と葬儀の世界には、今現在も事前見積りという考え方が定着していないのです。日本人ももう少し、欧米人のようにお金というものにシビアになったほうがいいのではないでしょうか。そして、ほんの数日間命を引き延ばすために、患者さんに苦痛を強いるということの是非について、もっと考えるべきだと思うのです。

患者不在の延命治療


西洋医学は救命と延命を第一の目的とする医療です。従って医師たちは治癒の見込みのない患者を相手にするのが得意ではありません。
1950年代から急増し始めたがんは、症状が厳しく、死に至る病として忌み嫌われてきました。がんの病巣が発見されると、可能な限り広範囲にわたって臓器を摘出し、その後も抗がん剤や放射線でがんを叩き潰そうとしました。しかしその結果、患者さんたちはみな、苦痛と疑念、孤独と絶望の中で死を迎えました。私自身、いま振り返ってみると胸が痛む思いです。

不治または末期で死が目前に迫っている患者さんには、さまざまな精神的苦痛(今日ではスピリチュアルペインと言われています)が襲いかかります。もう何をしてもムダだという絶望感や虚無感、誰もわかってくれないという孤独感、死という未知のものへの不安や恐怖などでしょうか。こうした、死ぬことで自分の存在や意味が消滅することによる苦痛は、多くの患者に共通して現れるものです。

しかし、こういうものに対して今日の西洋医学は配慮しなかったし、手を差し伸べようともしてこなかったのです。それどころか、医療技術の進歩によって死や命を操作することまでしてきました。その際たるものが延命治療です。西洋医学にはこれまで延命を第一の目標として進歩してきた歴史があります。医師たちはもうだめだとわかっていても、自然の摂理に反してでも命を長引かせる努力をすることで明日の医学が生まれると教えられてきたのです。

一方の患者さん側も、患者さん本人が自然に任せて天寿を全うしたいと望んでいても、家族の意向で不必要かつ無意味な延命措置につき合わされてしまうようなところがあると思います。「意識は戻らなくてもいいから一分一秒でも長く生きていて欲しい」というご家族がよくいらっしゃいます。しかし、患者さん本人の苦痛は半端なものではないと思います。人工呼吸器を取り付けるということはどういうことを意味するのか。医師はきちんと説明しなければいけないし、患者さん側も普段から理解しておくようにしたほうがいいと思います。

患者さんが亡くなったとき、「できる限りのことはしました」と、よく医師は言います。ご家族も、「できる限りのことをしてあげてください」と頼みます。しかし、医師やご家族にとってのベストが患者さんにとってのベストとは限らないということを知るべきです。もう元の生活には戻れないということが明らかになったとき、患者さんがどのような最期を望んでいるのか。そこを事前に共有したうえで事に当たって欲しいのです。

ただ、延命治療については、実際に家族がそのような状況になってみると判断が揺らぐものなのだというのも真実かと思います。というのは、昨年、諏訪中央病院院長の鎌田實氏のお話をうかがう機会がありました。鎌田氏といえば当然たくさんの延命治療に携わっているわけですが、講演のなかでもっとも印象に残ったのが、鎌田氏自身がお母さまに延命治療をするかどうかという場面になったときの話でした。

鎌田氏はお父さまに「延命治療をやめよう」と言いました。するとお父さまは、「バカもの。医師の務めは最後まで尽くすことだろう」と一喝されたというのです。それまで一度もお父さまに怒られたことはなかったそうです。で、結局鎌田氏は、意に反して父親の言葉に従ったと述べておられました。正直で誠実な人柄が滲み出るようなお話でした。医療のプロであってもこうなわけです。いくら経験の多い医師であっても答えはひとつではないのです。一般の人たちが思い悩むのは当然のことだと思います。

狐狸庵山人からの宿題

さて、延命治療のことを考えるとき思い出すのが、狐狸庵先生こと遠藤周作さんのことです。彼は、1996年の秋に肺炎による呼吸不全で亡くなられました。それから3年くらいして、奥様である遠藤順子さんの講演を聞く機会がありました。テーマが『心あたたかな医療』ということだったので、何となく聞いてみようかなぁと、そんな軽い気持ちでした。
 
遠藤周作さんは、
1980年代の半ばから『心あたたかな医療運動』というのを提唱して活動していたそうです。ご自身がいくつも大病を経験されていたということもありますが、直接のきっかけは、20歳代半ばにして骨髄がんで逝かれた遠藤家のお手伝いさんの死ということでした。当時、蓄膿症の術後だった遠藤さんは、上顎がんの疑いありということで、彼女と同じ病院に入院していました。敬虔なクリスチャンだった遠藤さんは、余命いくばくもないお手伝いさんのために、せめて安楽に死を迎えられるよう1ヶ月のあいだ祈り続けました。愛煙家であった彼が禁煙までして…。
 
そして彼女の死後、上顎がんの疑いが晴れた遠藤さんは、延命治療のあり方や医師の無神経な言動に疑問を抱き、「心あたたかな医療運動」を思い立ったといいます。お手伝いさんが死にゆく過程、遠藤さんご自身の入院経験(亡くなられる数年前にも腹膜透析の手術で長期入院されていた)などを通じて問題意識があったようです。
遠藤さん亡き後は、奥様がその遺志を継いで活動しているとのことで、私が聞いた講演会もその一環であったことが後でわかりました。

講演のなかで奥様は、「事後承諾で人工呼吸器をつけられ、亡くなる日まで一日に何度も採血をされ、腕は青く腫れ上がりました。さいごは、機械のゴーゴーいう空襲のような騒々しさのなかで、主人とは最後の言葉ひとつも交わせずに逝ってしまいまし。本当にあんな終わり方で良かったのか、今でも心残りでなりません」と訥々と語り、「今、病院で医師の正義に最後まで付き合わされる患者がたくさんいます。しかし、現代の医学が効力を発揮できなくなった時点で、もう医師と患者という関係は切れていて、あとはもう人間と人間の関係だと思うのです。患者と家族が心静かに別れることができる医学的な環境を整えてくださることも、ターミナル医療に携わる医師に課せられた役割とは言えないでしょうか」と結ばれました。

自らのつらい体験から、「心あたたかな医療運動」では、医療者に求めること、患者側も医療について多少なりとも学んでおくことを提唱しておられます。奥様は最初、どうして死の間際に苦しんでいる人から再三血液を採るのかわからなかったといいます。この採血は、血中の酸素濃度を測定し人工呼吸のレベルを加減するため、医学的に必要な処置ではあります。しかし奥様の心情としては、だったらひと言、なぜ「おつらいこととは思いますが、どうしても医学的に必要なことなのでご容赦ください」とでも言ってくれないのか。そんなやるせない気持ちだったのではないでしょうか。「医学的に当然のことをしているまで、みたいな顔をされるとしたら、まったくもって憤りを感じます」とそれはそれは強い口調で仰っておられました。


おそらく医療関係者は、患者さん側の痛みや苦しみに対して鈍感になってしまっているのだと思います。毎日重篤な人たちのなかで仕事をしていて、すべての患者さんひとりひとりにそんな気を配っていられないという部分もあるかもしれません。患者さんやご家族にとって病医院とは非日常的な場所ですが、医師や看護師にしてみれば何の変哲もない「日常」なのです。しかし、私自身が患者になったことを考えると、例え演技でもいいから悲嘆に暮れる人たちに寄り添うような言動を心がけて欲しいものです。患者さんが亡くなることや、家族が悲しむことに慣れっこになってはならないなと、再認識させられました。

死の準備教育


この章では、生きとし生けるもののすべてが迎えねばならない『死』というものについて、西洋医学と東洋医学の捉え方のちがいについて考えてみたいと思います。私も含めて医療に携わる者たちが『死』とどう向き合うべきかを考えるきっかけをもたらしてくれた偉大な人物が
3人います。

英国の内科医で現代ホスピスの創始者であるシシリー・ソンダース博士。彼女は
1967年に自らの病院にホスピス病棟を開設し、その活動は全世界に広がりました。日本では80年代になって、淀川キリスト教病院や聖隷三方原病院などにホスピス病棟が開設されました。

スイス出身の精神科医であったエリザベス・キューブラー・ロス博士は、人間が死を受容するまでの心理状態の推移を
1969年に『死ぬ瞬間』のなかで体系的にまとめました。これは現在でも全世界の終末期医療における指針となっています。

上智大学の名誉教授でアルフォンス・デーケンさんというドイツ人の司祭がいらっしゃいます。
2009年まで、東京と大阪で『生と死を見つめる会』というのをずっと続けてこれらました。彼が1980年代初めに提唱した「死生観・死の準備教育」は、今日の病医院における医療や看護のあり方に変革を求めるものでした。

特にデーケン教授の活動は、彼が日本を活動拠点としていたことで多大な影響を及ぼしました。その最大の功績は死をタブー視する日本社会に大きな風穴をあけたことです。日本では昔から死は穢れの対象とされ、不浄で忌むべきものとされていました。かつてのハンセン病のように、がんと宣告されるとそれは人間社会の外側に放り出されることを意味するようなことがあったのです。いや、場合によっては現在でもそんな部分が残っているかもしれません。デーケン教授は、人間社会の枠の外に置かれていた死というものを、人間社会のど真ん中に引き戻してくれたのです。そして、死とは生を照らし出す鏡であることを私たちに教えてくれたのです。

誰がための外科手術?


世界に目を向ければ、人体にメスを入れることなくがんを治療する東洋医学的治療という選択肢が定着しつつあります。欧米では東洋医学によるがん治療に対しても保険が適用されるなど、西洋医学を偏重することなく、患者さんにとって本当に望ましい医療を提供しようとする国家としての戦略があります。わが国においても、いいかげんに対症療法的な予算編成はやめて、本当の意味で国民にメリットのあるがん対策を講じてもらいたいものです。

この章のさいごに、
新潟大学医学部教授である岡田正彦氏の言葉をご紹介しておきましょう。岡田氏は、2008年に『がん検診の大罪』(新潮選書)という本のなかで、定期的にがん検診を受けた人たちのほうがそうでない人たちよりも、がん発症率および死亡率が高いという衝撃的な事例を取り上げたうえで、以下のように言っています。

「早期発見されたがんはほとんどが手術されることになるが、その手術自体が死亡に何らかの影響を与えていると考えられないか。患者は手術をすれば当然治るだろうと思っているが、かつて手術の有効性を調べた調査はひとつもない。逆に手術をして治ったと思い込んでいるケースでも、そもそも手術をする必要すらなかったという可能性もある。また、手術後に亡くなった患者について、結局手術をしても手遅れだった…と、説明する医師は多いが、実は手術を受けたことで身体にダメージが与えられ、抵抗力が奪われて死んだ可能性も否定できない。」

外科医の切りたがり


さて、先述の外科医と一杯やりながらこんな話を聞きました。私が、「俗に“外科医の切りたがり”というが、本当に手術はがんに有効だと思っているのか」と質問したときのことです。彼の答えは、執刀する外科医にも真実はわからないというのが本音とのことでした。

例えば、転移のあるがんの手術をして患者さんが1年後に亡くなったとします。患者さんの家族は、「手術しなければ半年しかもたなかっただろうけれど、手術が成功したおかげで1年も生きられた」と言うでしょう。どうしてそんなことが言えるのかといえば、「お医師さんがそうおっしゃったから。できるだけのことをしていただいたから」と…。これが典型的な関係者たちの心模様ではないでしょうか。

このあたりのことで悩んでいる外科医は少なくないようです。「この患者のがんは末期がんで、手術しなければ半年余りの命だ。しかし少なくとも数ヶ月は普通の生活ができるだろう。手術をすれば1年は生きられる。しかしQOLは低下し、再発すれば患者の苦痛は大きくなる。ベッドを離れての生活は困難になるだろう」といった葛藤がままあるそうです。でも、がんであることを告げておいて手術をしないと言えば、「手術ができないほど悪いのか」と患者や家族が絶望しかねない。そこで結局、外科医は患者の身体にメスを入れる道を選択するのわけです。彼自身も、こうした葛藤が日常茶飯事だと言っていました。この原因のひとつは、おそらく一般人(患者さんやご家族)の意識のなかに、“がん=手術”という図式が強く染みついているからではないでしょうか。だとすれば、この思い込みを打ち破る必要があると私は思うのです。そして、この問題を考える際に忘れてはならない真実がふたつあります。

ひとつは、「(医師が言う)手術をしなければ半年で死ぬ」という科学的根拠はどこにもないということ。もうひとつが、実際に摘出手術を受け、抗がん剤や放射線治療を受けた患者さん当人の苦しみは誰にもわからないということです。

寿命を縮める外科手術


がんの摘出手術について、最初に問題提起をしたのは、慶應大学病院の放射線科の医師である近藤誠氏だと思います。1995年に出した
『がんは切ればなおるのか』(新潮文庫)で、好感度の高かったアナウンサー逸見政孝氏とニュースキャスター山川千秋氏を例にとって、がん手術の有効性に疑問を投げかけたのです。当時はとても衝撃的な内容で、医療界全体を巻き込んでの大論争となったものです。その後も何十冊という著書が出されていますが、近藤氏が一貫して訴えているのは、「がんの手術はするな」、「がん検診は不要」、「抗がん剤は効かない」、「患者本人に告知せよ」の4点です。がん恐怖症に陥りかけていた世の中に、「もしかしたら手術をしない方がよいかも知れない」という時代の雰囲気をもたらした功績はとても大きかったと思います。

当時はまだ、今ほど医師という人種の権威が地に落ちてはいなかった時代です。患者さんからすると、医師が手術だと言えば、それは当然自分を助けるために言ってくれているものだろうという先入観がありました。しかし実際には、患者さんをモルモットがわりにして論文を量産するために行われた手術もあったかもしれません。そのことを世間に知らしめ、医師の言うなりになることなく、自衛のためにも勉強すべきだと啓発した意味は計り知れません。あれ以来、確実にがん患者さんやご家族が、がんというものについて情報収集したり、医師にいろいろと説明を求めたりする習慣がついてきたように感じています。そしてこれは、これから医療が健全に発展していくためには非常に価値のあることです。

かつて結核をはじめとする伝染病や、栄養不良に起因する外来性の病気に有効だった「早期発見・早期治療」という方法論は、がん、脳卒中(脳血管患)、心臓病など、今日的な生活習慣病には必ずしも通用しないという考え方が世界的に広まってきています。何といっても、
がんによる死亡者数が毎年増え続けている事実が、結局「早期発見・早期治療」が逆効果になっていることを証明しているではありませんか。適切な検診や適切な治療が行われているならば、がんで亡くなる人たちの数は徐々にでも減少してきていいはずですからね。

なのに日本では、がん対策として“早期発見・早期治療”とあちらこちらで盛んに謳われています。しかし、こういった世間では常識とされていることほど疑ってみた方がいいのかもしれません。例えば、自治体などで盛んに喧伝されている集団検診。私が思うに、そもそも集団検診で見つかるようなレベルまで大きくなったがんは、もはや早期発見とは言えません。仮に、PETなど云億円もする高価な検査機器で些細な腫瘍を発見したとして、現在のがん治療では摘出手術と術後の
抗がん剤および放射線治療という流れが一般的です。

しかし、こうした従来の治療法では免疫系をかなり抑制してしまうことがわかっています。患者さんの身体を衰弱させ、生きようとする意欲や心身の活力を萎えさせてしまうのです。がん自体が多少小さくなったとしても、全体として良い結果が出ないケースがたくさんあるのです。つまり、いくら早期発見をしたからといって、治療法の選択を誤ったのでは意味がないということです。無理やり見つけて、なんでもかんでも抗がん剤や放射線で治療しようとしたら、何もせずに放っておくよりも危険な場合が多いのです。ここらあたりの事情について、医師のみならず患者さんも理解することが必要だと思います。化学物質や放射線で身体を痛めつけて病気が治ると思うほうがおかしいと思いませんか。

いまや国民の2人に1人ががんで死ぬ時代です。患者さん側も情報武装する必要があるでしょうが、医師のほうも真のプロフェッショナルならば、何も治療しないということも含めて、がんには手術以外にも選択肢があるということをわかりやすく示さなければならないと思います。たまたま入局した医局が提唱する治療法に固執するだけで、自身が学んでいないからといって別の治療法を頭ごなしに否定するのではプロ失格と言われても仕方ないでしょう。

そして患者さん側も、そんなプロ失格の医師が多いという前提で自ら学ぶことが必要です。自分を守るのも、健康にするのも、医師ではなく自分自身であるという真実をしっかりと認識しておくべきなのです。

がんは切るな

ご主人(84歳)が、精密検査の結果、末期の大腸がんと診断され、慌てふためいて飛び込んでこられた女性がいました。一年前に自治体で受けた検診では異常なしだったにもかかわらず、です。すぐに摘出すれば成功の確率はほぼ100%だと言われたらしいのですが、当のご主人は手術だけは死んでもイヤだと言う。そこでご主人と会って話してみると、本人は痛くも痒くもないそうです。84歳。日常生活の支障はまったくない。術後の人生のことまで含めて考えたら、どう考えても摘出手術のリスクのほうが高いに決まっています。私は、手術は心でもイヤという直感は当っている可能性が高いように感じると伝えました。

基本的に外科医というのは、がんにはまず手術という習性があるものです。なぜならば、「身体に悪いところがあれば切り取るのが外科医の仕事。手術はがん治療のプロフェッショナル・スタンダードで、がんと診断しておきながら何もしないというのは外科医の倫理に悖る」という教育を長きに渡り受けてきたからです。だから外科医は“取れるがんは取る”し、何も知らない患者側ももちろん、“がん治療の第一選択肢は手術”と信じて疑うことはありません。しかし、言ってみればこれこそまさしくEBMとは対極の理屈だと思いませんか。

もうひとつ、こんな相談がありました。77歳の女性が肝臓がんと宣告されました。転移もひどく末期とのこと。しかしながら本人には何の自覚症状もなく、これまた1年前の検査では異常なしだったそうです。この先何をどうしたらいいのかわからない。先生、助けて…とのことでした。

相談していただいた時点で一切苦痛がないということなので、ちょっとじっくりと考えましょうということにしました。そして、まずはセカンドオピニオンです。これだけの重篤な診断結果ですから、複数の専門医の見解を聞かずして手術するなどはもってのほかです。必要であれば、専門医の紹介もする旨お伝えしました。

次に、セカンドオピニオンの結果、末期がんが確定した場合、治療法の選択をどうするか。これが相談者の今後の人生にとっての分岐点です。年齢的なことや広範囲への転移を考えると、まず摘出手術は絶対に避けるべきかと思います。例え手術が成功しても後々の生活がキツい筈です。術後の放射線や抗がん剤は、いずれも副作用の覚悟が必要になります。何より気分が悪くてどうしようもない場合が多いのです。

現時点で痛くも痒くもない以上、敢えてリスクの高い従来の治療法を選択することはお薦めできません。主治医には、「放っておく(手術や化学的治療を行わず、生活習慣を改善しながらがんと折り合いをつけていく)」という選択肢も含めて、相談者の「生活の質」の観点から最善策を提示してもらえるよう要請しました。基本的な考え方として、そもそもがんは生活習慣病です。つまり、糖尿病や高血圧と同様、現代の西洋医学では根治できない病気です。がんのような内なる病気に対しては、根本原因を取り除かない限り、むしろ
治療すればするほどがんの患者さんが死んでいくという傾向があります。私は、実際に従来のがん治療を受けた人たちがすぐに衰弱して亡くなられてしまうのを嫌というほど見てきました。


さて、結果的にこのケースは療法とも、患者さんが高齢という点を考慮して、食事、運動、適温維持等の生活改善で免疫力を高める工夫をしていきましょうということになりました。その結果、腫瘍マーカーの値にも改善が見られ、初めてお目にかかったときからは想像もできないくらいに表情も明るくなられました。今では体内に巣喰ったがん細胞とうまくつきあっていくという開き直りみたいな気持ちだと仰っています。

がんのメカニズム


ちょっと難しくなるかもしれませんが、まずはじめに、がんという病気がどのようなメカニズムで発生するのかということをお話しておきます。大切なところなので我慢してください。がんとは、異常な遺伝子が際限なく増殖してしまい、過剰に発生した細胞が腫瘍を生み出す病気です。人間には、あるレベルまでは細胞を制御する機能が備わっているから問題ないのですが、その能力を上回るほどの激しい細胞分裂が起きるとコントロールできなくなってしまうのです。

この過激な細胞分裂の一因としてフリーラジカルと呼ばれる異常分子があります。フリーラジカルとは、「自由自在に動き回る攻撃分子」という意味で、体内の分子が何らかの刺激を受けて一部分が壊れると、それを補おうとして周辺の正常な分子まで攻撃してしまうのです。このフリーラジカルの攻撃が他の分子に次々と連鎖し、遺伝子まで傷つけてしまうとがんが発生するということになります。

もっとも代表的なのが、酸素分子がラジカル化した活性酸素です。また、脂肪もフリーラジカルになりやすく、体内に大量に存在するため連鎖反応が起きやすいという特徴があります。他にも、フリーラジカルを発生させる刺激物として、紫外線、放射線、
X線、さまざまな化学物質や排気ガスなどが挙げられます。こうした原因によって異常な遺伝子が異常に増殖することで、腫瘍というものが出来上がります。

そして、ならばその腫瘍を摘出しようじゃないかというのが西洋医学の基本的な考え方なわけです。でも、がんが発生する原因をよぉく考えてみると、そもそもの元凶は私たちの日常生活のなかにあることがおわかりいただけると思います。と言うことは、表面化した腫瘍だけを削ぎ落としたとしても、根本的な私たちの生活を改めなければ、やがてまたがんが復活してしまうのではないかと考えるのが普通ではないでしょうか。ある意味では、だからこそがんの手術が成功したはずの人たちが、術後しばらくするとバタバタと死んでいく。その繰り返しなのだと思います。つまり、悪い病気は「モトから断たなきゃダメ!」ということなのです。


また、
1996年には、がんの発症については白血球の自律神経支配が関わっていることが新潟大学大学院の教授である安保徹氏によって発表されました。安保氏は、「がんになる人は人生に無理がたたっていて、そのストレスががん発症のひきがねになる。無理な生き方をしていると、交感神経の緊張が長く続き、活性酸素によって組織が破壊されやすくなるからだ」という安保理論をまとめて旧態依然としていた医学会に衝撃を与えました。そこでは、「これまでのように原因不明だからといって対処療法をするのではなく、生き方を見直すことこそが何よりのがんの治療法。いいかげんに、身体を痛めつける治療からは脱却しなければいけない時期にきている」と警鐘を鳴らしています。

食事もオーダーメイドの時代?


あと、さまざまな生活習慣の不摂生が肥満の引き金となることはわかっていても、自分の意思だけでコントロールすることはちょっと難しいかもしれません。いくら普段の食事や運動などの生活習慣を改善しなければという意識は高かったとしても、ひとくちに「健康管理」といっても複合的な要素が絡み合っていますから、素人が考えたアイデアをただ実践するだけでは本当に効果が上がるとは限りません。

となるとこれから代は、個々人のライフスタイルや遺伝体質、さらには人生観や価値観までをも配慮したオーダーメイド型の生活指導サービスが求められる時代が来るのではないでしょうか。つまり、健康維持増進に役立つ食生活,運動習慣,休養など生活習慣全般に関する詳細なアドバイスを提供する『パーソーナルトレーナー』とでも言うべきサービスです。

そのためには、医師のみならず、薬剤師・管理栄養士・健康運動指導士等の専門職で構成された健康指導チームの存在が不可欠になってきます。あるいは、管理栄養士という国家資格にとどまらず、健康のための生活習慣改善をミッションとする、さらに守備範囲の広いスペシャリストの存在が必要になる可能性もあるでしょう。医食同源、人を良くするのが『食』です。私としても、パーソーナルトレーナー的なサービスについて検討していきたいと考えています。

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