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生と死をつなぐウェルダイイング


さて、日本の西洋医学の現状は、いまだ最新の知識と技術を前面に出して、自然に反してでも病気を除去しようとする手段を提供しているに過ぎません。同じ西洋医学であっても、欧米の多くの医師たちが、人間にとってもっとも根源的な自然とか生命とかを尊重する方向にシフトしてきたのとは格段の差があります。患者さんを救うべき立場にある医療のプロならば、時代と環境の変化に対してもっと柔軟にならないと患者さんに不利益をもたらしかねません。これは人間の死というものに対するスタンスの問題でもあります。

元・鹿児島大学神経内科の権威で、現在は名古屋学芸大学の学長である井形昭弘氏は、「リビングウィル」でお馴染みの日本尊厳死協会の理事長でもあります。井形氏によれば、「問題は死の瞬間を迎えるまでの苦しみだが、今ではそのうち身体的苦痛についてはモルヒネの経口投与によってほぼ完全に取り除くことができる。こういうところはまさしく西洋医学の優れたところ。ところが精神的苦痛については手つかずの状況」です。

同じ西洋医学でも、欧米ではすでにスピリチュアルケア(死に至る精神的苦痛を緩和させるためのケア)が根づいています。ホスピス病棟では、患者さんをサポートするチームのなかに必ずチャプレインと呼ばれる牧師がいて、患者さんの死に対する恐怖や家族の悲しみを癒す役割を果たしています。米国の病医院では、大規模なところは牧師などのプロフェッショナル配置が義務づけられているし、小規模なところでも患者や家族の求めに応じて牧師は自由に病床へ出入りすることができるそうです。

世界保健機関(
WHO)のホームページには、『健康』を「身体的・精神的・社会的、そしてスピリチュアルな意味で完全に良好な状態」と明確に定義しています。つまり、心とか魂とかいうものが健康にとって非常に大事であるという考え方で、これを実現するためのケアのことをスピリチュアルケアと称しているわけです。しかしながら、またしても「世界の常識は日本の非常識」で、この分野でも日本は大きく遅れを取っていると言わざるを得ません。

栃木県の益子町というところに、私が知る限り日本で唯一、医学博士でお寺の住職という田中雅博さんという方がいます。彼は由緒正しいお寺に生まれながらも医学の道に進みました。お父さまの急死をきっかけに、
1983年、勤務していた国立がんセンターを退職して大正大学に編入。仏教を習得して1990年に、自らが住職を務める西明寺の境内に普門院診療所を開設したのです。

田中氏は、「日本では明治維新の廃仏以来、仏教が疎外された結果、スピリチュアルな部分が欠落した文化が日本に根づいてしまった。日本の病院には、スピリチュアルな部分を担当する人がいない」という思いから、ならば自分がやるしかないと思い立ったといいます。これは素晴らしいことです。

がんに代表されるように、今日の病気は、人間の四苦とされる「生老病死」の『病』の部分が長期化する傾向にあって、患者が年単位で時間をかけながら死に向かっていくという特徴があります。「死」というものに対する恐怖や不安から患者さんたちにはさまざまな葛藤が生じ、場合によっては人格にまで支障を及ぼすこともあるものです。

となると、この死へ向かう過程では然るべきスピリチュアルケアが必要となってくるのは必然でしょう。残された人生の価値や
QOLをいかに高め、いかに穏やかかつ幸せに死へ誘導していくのか。これこそが終末期医療であり、医学の重要な役割のひとつだと思うのです。ですが今日現在、日本ではスピリチュアルケアは医療保険の点数にはならないもの、つまり必要のないものとして括られているのが実情です。

でも、スピリチュアルケアが難しいのは、提供者側がその方法論や技術論を確立実践したとしても、それを受け止める側にも準備を要するという点です。私としては、死を目前に控えた患者の内面的な事柄については、やはり宗教家の出番だと思います。患者さんのベッドの脇でその手をさすりながら時間をかけて傾聴する…。こんなイメージをするとどうしてもついついキリスト教の牧師さんの姿が浮かんでしまうのですが、ここはひとつ田中氏を見習って、仏教関係者にも積極的に取り組んでほしいところです。

明治以降、日常生活から切り離されてしまった感がある仏教ですが、教現在でも日本の葬儀の
9割以上は仏式です。どうも日本の医療現場では、「西洋医学は死ぬまで、死んだらお坊さん」というように生と死が断絶しているような気がします。現に臨終を告げた後の病医院側の対応は実に素っ気なくて事務的です。どことなく、患者さんが生きていたときと比べて温度差があります。

この部分を何とかお坊さんにつないでほしいと思います。日本の医療は、そもそも寺院で行われていたという史実があります。聖徳太子が建てたとされる日本で最初の国立寺院「四天王寺」には、敷地内に病医院、施設、薬局、学校がありました。原点回帰ではないですが、患者さんが生きているうちから、デーケン教授のいう『死の準備教育』を病院に出前してみてはどうでしょうか。あるいは医療も含めた総合寺院を作って、地域コミュニティの磁場になるというのはいかがなものでしょうか。


いずれにせよ、日本の西洋医学の現状は、肉体的・生物学的な身体治療には熱心ですが、精神面での関わりという部分が希薄であることは明らかでしょう。かつて死はある日突然に訪れるものでしたが、多くの死が非常に緩やかなものになってきたこれからの時代の医療は、ただ単に身体の痛みに対応するだけでなく、その人の心や魂や人生といったスピリチュアルなものにどのように貢献できるか。そんな観点から見直されるべき時期に来ていることはまちがいありません。死に向けた生をどうやって生きていくのかという『ウェルダイイング』のためにいかなる支援をしていくのかが、私も含めた医療者たちに与えられた最大の課題だと思っています。

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