医療の世界でぶつかった最初の壁・・・

こんなことを考えるようになったきっかけは、私事で恐縮ですが、私の老親から聞いたこんな話でした。
私の両親は当時、父80歳、母72歳。子供たちが巣立った今、ふたりっきりで東京郊外の住宅地に暮らしていました。
今日では社会問題化しつつある『高齢夫婦のみ世帯』です。
 
ある日、母がたちの悪い風邪をこじらせました。いつもであれば父が老体に鞭打って車を運転して最寄の診療所へ連れて行くところですが、生憎、当時の父は膝関節をわずらっていたためそれが叶いません。そこで父は考えた挙句、「そうだ。往診してもらおう!」ということで心当たりの診療所に電話したところが、返ってきた答えはつれないものばかり。
「うちは往診やってないのよ。ごめんね、おじいちゃん」
「前はやってたんだけどねぇ。他に聞いてみて下さい」
「なに?往診?うちはできないんですよ。ガチャン!」
 
ここらへんまでくると、加齢とともに一層気の短くなった父は、半ば意地になって、なんと最初に断られた診療所にもう一度電話をかけるや、
 
「こっちは病人がヒーコラ言って困って電話してるんだ。病気で唸ってる年寄りに、こっちまで来なきゃ診てやんないとは何事かっ!」
そして、相手の女性が、「そう言われてもねぇ、おじいちゃん・・・」と話を続けると、
 
「おじいちゃん、おじいちゃんって、失礼な!こっちはまだまだ若いものにゃあ負けないぞっ!ガッチャン!」
 
その後の父の行動を後で聞いてみると、市役所へ電話しても、医師会へ電話してもダメで、結局、保健所へ電話して、往診してくれそうな診療所を2件教えてもらったとのこと。ですが、な、な、なんとその2件のうち1件は、ついさっき直接電話して断られた診療所だったそうな。
 
残った1件も、休診日だったのかどうかはわかりませんが、電話が通じず、最終的に、父は私の携帯に電話をかけてきたのでした。
父と話していると横から風邪でダウンしているはずの母が割り込んできて、「大丈夫よ。お父さん、大袈裟なんだから。寝てれば大丈夫なんだから。お母さんなら心配要らないから、仕事がんばってね!」。
 
翌朝、私は会社を午前中だけ休み、母を近くの大学病院へ連れて行き事無きを得ました。
が、しかし…です。私の場合、当時は実家から車で20分足らずの場所に住んでいたからいいものの、一人暮しや、身内が近くにいない高齢夫婦世帯の場合だったとしたら、このケース、一体どうなっていたのでしょうか。これは、ちょっと笑い話で済む話ではありません。
たかが風邪、されど風邪です。現に、私の祖父母は、最終的に風邪をこじらせて他界しています。
 
なのに、例えば、一人暮しの高齢者が風邪で倒れ、往診してもらいたくても、どこも願いを聞いてくれない。
というか、それ以前の問題として、往診してくれる診療所と往診してくれない診療所があって、どこに問い合わせれば往診してくれる診療所を即座に教えてくれるのかすら判らないのが現実なのです。

恐らく、体調を崩した高齢者が、あの見づらい電話帳を調べながら、初めての診療所や市役所、増してや地域の医師会に電話をすること自体、かなりの重労働だと思います。病気で気弱になっていないとしても、こんな大変な作業はストレスのもとでしょう。
私と比べれば視力だって衰えているだろうし、指先だってうまく動かなくなっている可能性も高い。そんな状態で果たして必要な医療にたどりつけるものでしょうか?

 
何か日本の医療は腑に落ちないことが多いのです。私の父が言うように、なぜ風邪をひいて寝込んでいる患者の方が、わざわざ大変な苦労と危険を負って医者のところまで行かなければ診てもらえないのでしょうか?なぜ、緊急時にはここに電話をすれば大丈夫という体制を、行政なり医師会なり保健所なりが作って、広く地域の住民に知らしめないのでしょうか?

ある時期、この答えを見つけようとあれこれ調べたのですが、結局、自分自身や大切な家族を守るのは自分しかないということ。
私たちは、せめて日頃から、何かがあった時にすぐ往診してくれる医者を見つけて確保しておくことしかできないのです。
高齢者世帯が休日や夜間の緊急時にも安心して暮らせるような地域医療体制を、国や自治体や医師会に任せておいたのでは何年かかるかわかりません。そのことはよぉくわかりました。ここはもう、自分のことは自分で何とかするしかないのです。

長生き時代の『転ばぬ先の杖』を作りたい!

日本の健康保険制度は、その浸透度において特に優秀であり、世界の模範になっているとまで言われています。

それでは、あなたは現在の日本の医療システムに満足してらっしゃいますか?

私のまわりを見渡すと、むしろ不満の方が多いようです。高齢者だけの世帯では、夜間に自分や家族に何かあった場合にどうすればいいのか、という不安を絶えず抱きながら生活していると言っても過言ではありません。

 
私たちNPOの会員さんのなかからも、実際にそのような事態に遭遇して大変な目に合ったという声が数多く聞こえてきます。
「自分ではかかりつけのお医者さんだと思っていた医師が、残念ながら、いざという時に助けてくれなかった」等という声を耳にするたびに、日本の地域医療のあり方はどこか間違っているのではないか・・・、そんな疑問を持ち続けてきました。
 
社会福祉士となった私が、当初目指していたもの。それは、寝たきり、通院困難、あるいは、その他の事情で定期的な往診を求めている高齢者と、訪問診療を提供できるドクターとをマツチングして、更には緊急時の受け皿となる支援病院などまでを含めた新しい地域医療ネットワークを作ることでした。これは、地域高齢者(生活者)のみなさんが、24時間365日年中無休、住み慣れた環境で、安心で快適な生活を過ごせるような医療・福祉の体制を実現することを意味します。
 
しかし、いまや2015年には「団塊の世代」と呼ばれた方々の殆どがシニアに突入する時代です。
となれば、もう一歩踏み込んで、健康な時から万一の場合に備えておくことが必要な時代に入ったと言えるのではないでしょうか。
折りしも、いつ何が起ころうとおかしくない物騒な世の中です。ご自身はもちろん、愛するご家族を守ることができるのは、最後は身内のものしかないのです。
 
ですから、今現在の私は、運悪くも既に病気を患ったり、寝たきりの生活を余儀なくされている方々だけでなく、今現在元気で健康なみなさんに対しても、いざという時の医療や福祉に関するセイフティーネットを提供したいと考えています。

ひと言で言えば、「毎日が安心、万一も安心」。
そんな地域社会をひとつでも多く実現させるために、このNPO『二十四の瞳』を拠点に社会福祉士としての本分を全うしていきたいと思っています。

 

転職活動と受験勉強

1999年12月から翌年2月までの3ヶ月間は、転職活動および社会福祉士養成校の入学試験が重なり、実に充実した時間を過ごしました。介護保険ブームの中で福祉系の資格も大人気となり、何と通信教育を受講するために論文による足切りがあったのです。私が通った学校もその年から定員を倍の600名にしたにも関わらず、500名余りのひとが論文審査で門前払いとなったほどでした。
 
2年間で約70万円の学費を納め、50本のレポート提出、2ヶ月間の夏期スクーリング、1ヶ月間の現場実習を経て、国家試験に至ります。社会福祉士の国家試験は例年1月の最終日曜に行われるのですが、私の場合は、年明け元旦から25日間、がむしゃらに暗記の鬼と化して、なんとかボーダーラインの90問(全150問)をクリアすることができました。記憶カード(昔でいう単語帳)による短期集中学習法で、満点ではなく6割を獲りにいったのです。もちろん、通常の勤務を続けながら。
 
因みにIBMの次の職場は、NTT系列のコンサルティング会社。介護保険スタートに合わせて医療福祉分野の専門チームをちょうど立ち上げた時期に私が応募した感じでした。当時の転職活動を振り返ると、「ヘルスケア分野のコンサルティングを手がけたい」という主旨で、シンクタンクやコンサルティングファーム等25社に企画提案書を一方的に送りつけました。今でいう潜在需要アプローチ型の就職活動でしょうか。結果的に、面接のチャンスをもらったのが8社。最終的に残ったのが3社でした。ただし、うち1社は保険的意味合いのIT系企業であり、福祉とはまるで関係なし。スミマセン。
 
その中からNTTの孫会社を選んだのはラッキーだったと思います。その後いろいろな地域の高齢者と接することになるのですが、NTTという文字の入った名刺は信用度が高いのです。特に地方へ行けば行くほどに・・・。初対面の人たちに話を聞いてもらいやすいという意味でNTTという暖簾は絶大なものなのだなぁと感じたことが多々ありました。

あと、脱線しますが、あのとき企画提案書作成のために読み漁った医療福祉マネジメント系の文献は、後の国家試験対策にも、今日の私の仕事にも実に有用でした。今にして思えば、転職活動と入学試験のタイミングが重なったの一石二鳥。決して冗談ではなく、このふたつがズレていたとしたら、おそらく現在の自分はなかった・・・。人生って、ホントどこでどうなるかわからないものです。

私が社会福祉士を目指した極めて不純な動機

私が医療と福祉の世界に入って12年が過ぎました。
私が福祉の世界に関心を持ったのはまさに20世紀末。
ちょうど介護保険制度がスタートする直前のことでした。
私はこの年限りで、社会人になって最初に勤務したIBMという外資系コンピューターメーカーを辞めようと決めていました。
そして、次の進路をどうすべきかを考え、様々な業界の動向を自分なりに調べることに時間を割いていました。
 
当時は既にバブルも弾け、景気は安定的に(?)停滞していた時代。
失われた20年・・・なんて言葉が生まれる予兆のような時期でした。
そんな中、日経の業界動向予測における数少ない成長分野が「IT・環境・福祉」でした。
それから1年余りでITバブルも弾けてしまうので、実際には環境ビジネスか介護ビジネスしかなかったと言えるでしょう。
で、私はハードルが低そうな福祉を選ぶことにしたのです。
福祉にも、大きく「高齢者」と「障害者」があったのですが、市場の大きさから前者に決めました。
同時に、各業界のトップ企業のホームページを徹底的に読み漁ってみると・・・。
そこには、宝の山を探し当てんとする鼻息の荒いフレーズが賑わっていました。
「少子高齢化による市場構造の変化」とか「地域高齢社会への貢献」とか・・・。
大手総合商社までもが医療福祉分野に戦略投資をするようなことが記されているのを見て、『進むべきはヘルスケア』という基本方針を固めたのを覚えています。
 
幸い学生時代の仲間に医者がかなりいたので、何人かに会って話してみると、話題は専ら「介護保険」のこと。
彼らも医療保険に続いて約40年ぶりに創設される国民皆保険制度について情報武装しなければならないことが判りました。
当時38歳であった私は、医者になるために必要なコスト・時間・労力を知るに及び、あっさりと断念。
ならば福祉は?ということで早速本屋で立ち読みしてみると、『社会福祉士』という、当時の私には得体の知れない資格に出くわしたというわけです。

「医療界のトップが医師ならば、福祉界のトップは社会福祉士」と、ある参考書には記載されていました。
そこには、医師が実際には一職人であるのに対して、社会福祉士は、「わが国の縦割り行政の結果もたらされた、利用者にとって使い勝手の悪い保健・医療・福祉を有機的に結びつけて・・・」等というきわめて次元の高い資格であるようなことも書かれていたのです。

その物凄い国家資格を、大学時代に福祉の「ふ」の字も学んでいない私であっても通信教育で2年もあれば取得できると知りました。
仮に医学部に入っても最低でも6年間は拘束されるわけですし、医者という職業がこの先ジリ貧になっていくことも予見されました。
そして、その時点ではまだ介護保険なるものを熟知できていない医者たちに対して、うまくすれば指導する側に立てるかもしれないという願望が芽生えていったのです。

こんな経緯で、当時は一大ブームであった介護保険で一攫千金を夢見た私は、実に不純な動機で社会福祉士の国家試験を受験するための準備に取りかかったのです。

改めて自己紹介

 昨日、とある新年会で隣同士になった方から尋ねられました。
私が社会福祉士であり、医療・福祉関連のNPOを運営しているとわかっての質問です。

「ジャッキーさん(私の通称)ってどんな方なのですか?」

なんでも、お友達が葬儀の生前予約を検討中とのこと。
で、私をお友達に紹介するとして、事前にプロフィールを知っておきたい・・・というのが主旨でした。

考えてみれば、NPOの活動を始めてから7年。
このサイトを立ち上げてから3年。
なにかのご縁で立ち寄られた方にとってみても、私の素性を明らかにしておいたほうがベターなのは言うまでもありません。

ですので、年が改まって間もないことでもありますし、改めて私のことについてお話していきたいと思います・・・。


何年医師通いしても良くならないアナタに捧ぐ


私は外来で患者さんと相談する時、「必ず治りますよ」とは絶対に言いません。そういう医師もいるかもしれませんが、そんなことを言えるはずもありません。私の説明を十分に理解していただいて、「それであれば希望を持って代替医療でやってみたい」とおっしゃる患者さんにはできるだけのサポートをします。

これまでの経験からして、少なくとも、西洋医学での治療と比べて延命できる確率は高いと思います。
QOLも良くなる確率が高いです。うまくいけば治ってしまう可能性もあります。そうした実績があります。

ですが、目の前にいらっしゃる患者さんがどうなるかは断言できません。あくまでも確率や可能性といったことであって、例えばがんの進行が止まるなどという保証をすることはできません。このあたりをご理解いただけないと後にトラブルになる可能性があります。良い結果が出なかった場合に、患者さん側も
騙されたということになってしまいますから。

これからは、患者さんが西洋医学も東洋医学もよく理解して治療法を選ぶ時代だと思います。そして、もしも東洋医学を選ぶということであれば、患者さんが主体的にそれに取り組む姿勢が不可欠です。ですから当然、自らが選択した治療法について、ある程度、理解していただくことが必要になってきます。

これまでは、たまたま出会った医師に全部任せていればいいだろうという時代だったかも知れません。でもこれからは、患者さん自身が積極的に勉強して最低限の知識を身につけ、納得して医療を選ぶという時代なのです。まさに患者さん参加型の医療です。それができないという人には東洋医学は向かないと思います。

それから、たまにあるのですが、この漢方薬さえ飲めば病気が簡単に消えると思っている人も困ります。お話してみて、ああ、この人は東洋医学を全然わかっていないなという人はお断りしています。代替医療とか統合医療とかいう言葉が、いくらマスコミで取り上げられるようになったとしても、まだまだ理解していただけない人たちも大勢いると思います。いつの時代にも誤解はあるだろうなとも思います。

かつては米国でも、「代替療法なんてインチキなものをやっているのは、どうせ学歴の低い知性の乏しい連中だろう」などと思われていた時代がありました。ところが実際には、蓋を開けてみたら逆だったわけですが。ある程度インテリジェンスの高い人たちが主体的に代替療法を選んでいるということが分かったのです。

私たち人間は、生きていれば必ず病気になるものです。もし読者のみなさんが病気になったとしたら、症状を改善し、健康を回復するためにはどうすべきかを決めなければなりません。そして、それを決めるのは自分の責任だということをご理解いただきたいのです。

その責任を回避してしまうと、みなさんの代わりに誰かが決めることになります。多くの場合は、たまたま何かのきっかけで出会うことになった医師ということになると思います。しかし、医師に診てもらうことが、みなさんにとって必ずしも最良の選択になるとは限りません。どうしてもこのことをお伝えしたくてこの本を書くことにしました。みなさんがいざという時に判断を誤らずに済むように、現代の医療の中心に据えられている西洋医学とは、何が得意で、何が不得手なのかを知っていただくことが、まずは適切な治療法を手にするための第一歩だと考えております。

まやかしの予防教育に騙されるな


現在の病医院で行われている治療のほとんどは、症状を緩和する対症療法であって、原因そのものを解決するものではありません。しかしハッキリ言って、その対症療法の過程でのべつ幕なしに処方される薬の副作用は国民にとっては大いなるリスクなのです。


しかしこの裏には、病医院は予防ではメシが食えないという事情があります。病医院や医師は、いくら病気の予防に力を注いでも儲からないどころか、逆に減収してしまうのです。この点を患者さんは十分に認識しておく必要があります。


日本の医療制度というのは出来高払い制を敷いていて、患者をすぐに治してしまうと収益が上がらないしくみになっているのです。ダラダラと治さずに通院させたり、最初の処置がダメだったからといって別の処置を施したりする方が儲かってしまうという代物なのです。
もし、高血圧や高脂血症やがんや糖尿病患者が激減すれば、医療関係者の懐には北風が吹き荒れることになります。だから病気の予防に本気で取り組もうとする医師は少ないし、医学部のカリキュラムにも予防医学は登場してこないのです。


本来あるべき医療を考える上では、国民医療費が毎年1兆円ずつ増えるのはどうしてなのかという真の原因を調べたうえで抜本的な対策を講じないと駄目なのですが、これまでに述べてきたように、自らの利権が消滅するのを恐れ、真剣にこの問題に対峙しようとする人はほとんどいないのが実際のところです。


国民医療費適正化などと叫びながら、だれも真剣に適正化などしたくない。むしろ、ちょっとずつ増えていってくれた方がありがたいと思っているひとがほとんどなのではないでしょうか。そう思わずにはおれないほど、わが国には医療や介護に対するビジョンや戦略がありません。それは、戦略を策定する側のひとたちにとっても、戦略がないほうが望ましいからにちがいありません。


いまの日本では「治療より予防を」という言葉だけが一人歩きして、国は具体的なアクションプランを一切提示しません。その結果、個人的に予防に投資しようとしたまじめな人たちが、眉唾物の健康食品やらサプリメントやらの悪徳商法にひっかかってしまっているというのが哀しい現実です。今日のわが国医療の迷走ぶりは、理念なき医学教育や診療報酬体系の矛盾といった国家レベルでの戦略のなさがもたらした相乗的スパイラル現象と言ってもいいでしょう。

健康革命のすすめ


借金大国になった日本にとって、医療費の増大は頭の痛い問題です。医療費の財源は底をつき、医療保険制度崩壊も時間の問題と言われています。さらなる高齢化、しかも農薬や添加物まみれの食べ物で育った世代が歳を重ねていけば、医療費が青天井に増大したとしても不思議ではありません。ただでさえ少子化で、しかも環境ホルモンの影響でさらに子どもが減れば、働いている人たちが払う保険料は大変な額になることは容易に想像できます。


それでも、病院や製薬会社が自らの利益を減らしてまで予防に取り組むかどうかは疑問だし、すでに厚生労働省は医療費の自己負担率引き上げにかかっています。このままでは、お金がないと医師にかかれない時代が来てしまうかもしれません。だから国民が変わるしかない。そして、変わるためには、まずは真実を伝えることが必要だ。私はそう思っています。


西洋医学を中心とする現代医学の限界について、わが国の矛盾だらけの医療システムについて、そして、健康を損なう原因を作ったのも改善のカギを握るのもすべては自分自身のなかにあるということについて。これらについて、これから高齢者になる団塊世代や若い世代にきちんと伝えていくことが重要です。

まずはこれまで常識だとされてきた医療についての真実を知ること。みなさんを健康にしてくれるのは、決して医師や病医院ではなく、みなさん自身なのです。こたえはすべて、みなさん自身のなかにあるのです。読者のみなさんの健康への第一歩は、これを知ることから始まるのです。そして今、みなさんは健康革命のスタートラインに立ったのです。これこそが、全編を通じて私が読者のみなさんにお届けしたかったメッセージです。

患者さんのために…、西洋医学+東洋医学=統合医療


もうちょっと踏み込んだ話をしましょう。仮に日本の医師たち、つまり西洋医学側の人たちが、科学的根拠が乏しいといって東洋医学を否定するとしたら、これはもとより東洋医学の責任ではありません。それこそ近代医学をもってしても心や命といったものをいまだに解明できていないからに他なりません。科学で解明されていない対象に向かい合っている東洋医学に、科学的根拠が乏しいのは仕方のないことですからね。なんか禅問答みたいになりましたが、責任があるとすれば、それは東洋医学にではなく、西洋医学を生み出した科学の未熟さにあると私は認識しています。

少しは欧米の医師たちの柔軟さを見習ってみてはどうでしょう。彼らは世間体や面子よりも、価値の有無でスタンスをころころと変えてきます。患者さんのために良いものは積極的に取り入れる。それはビジネス的にいっても良いことなわけです。にもかかわらず、日本の西洋医学は相変わらずエビデンスがどうの言って東洋医学を斥けようとする。これが建前であることを願います。患者さんにしてみたらせっかくの援軍だというのに、医師たちのつまらない意地のために東洋医学の手を借りるチャンスを失ってしまったら泣くに泣けないでしょう。

一方で東洋医学に関わる人たちについても、感心できない部分があります。まるで西洋医学がそうしているのと同じように「西洋医学はダメ。東洋医学がすべてを救うのです」とか、しゃかりきになってエビデンスを追求しようとして「いや、東洋医学にも科学的裏づけがこんなにあります」とか言っているようでは、問題はいっこうに進展しないと思います。そもそも西洋医学が得意とする土俵で勝負することに意味はありません。それはいくら深追いしても時間と手間が無駄というものです。

「東洋医学には、エビデンスに乏しい分、直観というものがある」と先述の帯津氏は言っています。それは、フランスの哲学者でノーベル賞も受賞しているベルグソン(
18591941)が言うところの「生命の躍動から歓喜にいたる哲学的直観」だそうです。東洋医学を提供せんとする医療者たちはこの点こそを大いにアピールすべきです。どうも日本では、西洋医学も東洋医学も、お互いを敵視してしまうようなところがあって困ります。両者は敵対するものではなく、患者さんのために協力し合うべきものなのに。

本当に良い医師というのは、患者さんに良いと思うものをいろいろと組み合わせて提供する柔軟さを持っているものだと思います。すでに欧米では、西洋医学と東洋医学双方の良いところを統合して治療に生かしていく方向性が完全に明確になりました。この流れは、医学というものの対象が、従来の「身体」から「心と命」に転換し始めたことを意味します。この考え方の下に展開される医療を『統合医療』と呼ぶのですが、私は、統合医療とはベースにしっかりとした西洋医学があって、そこに西洋医学では足らない部分を東洋医学が補完することで初めて成り立つものだと考えています。

東洋医学に対する医師の建前と本音


さて、がんをはじめとする生活習慣病や、エイズ、アトピー性皮膚炎などに対して、西洋医学は相変わらず手を焼いています。そして、これらの病気に共通するのは、身体だけに関わる病気ではなく、心や命にも深く関わる病気だということです。だとすると、西洋医学がこれらの病気に対応できないのは当たり前の話です。心や命の問題というのは、西洋医学が科学するために真っ先に切り離したものだからです。

これに対して東洋医学とは、多かれ少なかれ、人間の心や命にはたらきかける伝統的な方法です。病気に苦しむ家族や仲間たちを前に、みんなで祈ったり身体をさすったりするという行為が、どう考えても西洋医学とは相容れないものであることはわかります。ですが、死の形が変化してなかで、どうもこうした人のスピリチュアルな部分に働きかけることで、患者さんが穏やかになったり、症状が改善したりということが多々あるのもまた真実なのです。

ですから、欧米のみならず、日本でもここ数年東洋医学に対する一般の人たちの関心が非常に高まってきたのも当然のことと言えるかもしれません。いや、西洋医学側の医療者たちもその手の集いで実に多く見かけるようになりました。もしかすると、日本人特有の建前と本音があって、本当は多くの医師たちも東洋医学の良いところは取り入れるべきだということに気づいているのかもしれません。だとすれば、それはとても嬉しいことです。彼らの胸のうちに芽生えたその気づきを、どうか読者のみなさんたちに後押しして欲しいと思います。ちょうど米国で医療を利用する側の人たちのムーブメントが病医院や医師たちを突き動かしたように。

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