感動する医者の話12

まさか毎日そんなものばかり食べているんじゃないだろうな…。
 
たしかに毎日忙しいお母さんが時間をかけて食事を用意するのは大変だろう。しかし、度を越してあの手のお菓子ばかり食べ続けるのは問題がある。今日はそのあたりのことを尋ねてみる必要があるだろう。幼少の頃の食習慣は大人になっても身体に染みこんでしまう。
これでは積極的に生活習慣病になろうとしているようなものである。
 
診察室に戻ってしばらくすると例の母子がやってきた。顔の赤みが多少落ち着いたようだ。
 
 「こんにちは。今日のお昼は何をたべましたかぁ?」
 「ハンバーガーとポテト」
 「じゃあ飲み物はコーラかなぁ?」
 「ううん、メロンソーダぁ」
 「お母さんと一緒に美味しいもの食べて良かったですねぇ。」
 「うん!」
 
お母さんの話では、からだ全体に赤みが取れたものの、まだ痒みは残っているとのことだったが、効果が出始めているようすだったので、このままもうしばらく続けてみましょうということにした。そして私は、今日の本題を切り出した。
 
 「あと、ちょっと毎日の生活のなかで意識して欲しいことがあるのです。」
 「ハイ…」
 「スナック菓子とかチョコレートとかはよく食べますか?」
 「ああ、大好きみたいでしょっちゅう。」
 「実は前回、お子さんがですねぇ、好きな食べ物は、じゃがりこと、なんとかコーンと、あとぉ、なんたらムーチョと…」
 「キャラメルコーンとカラムーチョ、ですかぁ?」
 「あっ、それそれ」
 
男の子が頬月の音のようにキュッキュッと嬉しそうに笑った。つられてお母さんも笑う。
 
「最近のお菓子は名前がむずかしいですねぇ。じゃあ、いまから食べ物の名前を言っていきますからね、好きなものが出てきたら手を挙げてくださいよぉ、いいですかぁ」
 
 「ハイッ!」 男の子は大きな声で元気に手を挙げる。
 
 「では、いきますよぉ。ハンバーガー」
 「ハイッ」
 「フライドポテト」
 「ハイッ」
 「メロンソーダ」
 「ハイッ」
 「コカコーラ」
 「ハイッ」
 「フライドチキン」
 「ハイッ」
 「ポテトチップス」
 「ハイッ」
 「アイスキャンディー」
 「ハイッ」
 「ドーナツ」
 「ハイッ」
 「チョコレート」
 「ハイッ」
 「ピザ」
 「ハイッ」
 「カップラーメン」
 「ハイッ」
 「ええっとぉ…、」
 「ナビスコエアリアルコーン塩味!!!」
 「いゃあ、ぜぇんぶ好きなんですねぇ。いちばん最後のぉ…」
 「ナビスコエアリアルコーン塩味」
 「それもやっぱりぃ…」
 「とんがりコーンのようなものです」と、お母さん。
 「???」
 「スナック菓子です。」
 「ああ、かっぱえびせんみたいなのですかねぇ」
 「ええ、だいたい似たようなものです」
 「夜のご飯はどのようなものをよく召し上がりますか?」
 「平日はやはり、家で作るのがむずかしいので…。ハンバーガーとかホカ弁とかを買って済ませてしまうことが多いですね」
 「なるほど。お仕事終わって、ボクをお迎えに行って、それからお買い物やお料理じゃあ大変ですものねぇ。」
 「はぁ」
 「実はですねぇ…」
私は、食べ物について気をつけてもらいたいことを話しはじめた。

(続く)

感動する医者の話11

事情があってご主人はいない。まぁ、ご主人がいたとしても、ご主人だって仕事が忙しいだろうし、お母さんの負担が減るかどうかはわからないが。ある意味、ご主人がいないだけ負担が軽いとも言えるかもしれない。いずれにせよ、助けて欲しい、何とかならないだろうかというのが2週間前の相談だった。
 
煎じ薬と痒み止めの抗ヒスタミン剤を処方。成人であれば組織胎盤注射をするところだが子どもには控える。併せて、保湿剤を入れたお風呂にゆっくり浸からせるよう指導したのだが…。私が気にしているのは、お母さんが会計を済ませている間に男の子と交わした会話のことだった。
 
 「君、保育園は楽しいですかぁ?」
 「うん、楽しい。」
 「痒いのがはやく良くなるように、先生もがんばりますからね。」
 「うん。」
 
子育ても遠い昔の私には、正直なにを話していいのかわからないところもある。無難なところで、と思い、こう続けた。
 
 「君は、食べ物はなにが好きですかぁ?」
 
間髪入れずに男の子。
 
 「じゃがりことキャラメルコーンでしょ、あとカラムーチョ!」
 「ええっ???」
 
聞きなれない言葉に目を白黒させていると、近くにいたスタッフが教えてくれた。
 
 「お菓子ですよ。お菓子の名前。すっごい美味しいんだよねぇ~?」
 「うん!」
 
支払いを終えたお母さんが男の子の手を握り、行きますよと合図する。
 
 「さようなら」と、屈託のない笑顔で手を振りながら出て行く姿を見ながら、私は得体の知れないお菓子を必死に連想しようとしていた。
 「ねぇねぇ、いまの男の子が言ってたお菓子ねぇ、どういうお菓子なの?」
 「スナック菓子ですよ。じゃがりこもキャラメルコーンもカラムーチョも、たぶんどれも人気トップ10に入ってますよ。」
 
女性スタッフの説明を聞いて、たまに立ち寄るコンビニにズラリと並ぶスナック類のカラフルなパッケージが浮かんできた。ジャンクフード。欧米ではこう呼ばれるスナック菓子は、ハンバーガーやフライドチキンやドーナツなどのファストフードと並んで、健康に有害な食べ物の代表選手である。ジャンクフードとは、「屑な食べ物」という意味だ。

(続く)

感動する医者の話10

比叡山のふもとで開業している私だが、数年前から週のうち3日は東京で診察をしている。日本の病院界のトップブランド、慶応義塾大学病院。そのすぐ目と鼻の先にあるものの、どちらかと言えば目立たないマンションの1階がわが木下内科東京分院である。滋賀県大津市の本院をスタートしたのが平成元年。おかげさまで、近隣の方たちばかりか、西洋医学でいろいろな意味で嫌な思いをされた人たちが遠方からもやって来られる。
 
が、やはり東京以北から大津まで来るというのはちょっとキツい。そんな声に背中を押されるように5年ほど前に開いたのが東京分院だ。西洋医学に限界を感じ、その至らない部分を東洋医学で補完する統合医療を標榜する私が、広い東京の、それも西洋医学の頂点を極める人気の大病院がそびえる地で、妥当な物件を見つけたというのも不思議な巡り合わせだと思う。
 
新緑の季節、神宮外苑の杜を望めば、その向こうに抜けるような青空が広がり、凛としたそよぎを身体じゅうで感じることができる。本院から眺める比叡山も最高だが、大都会の真ん中で味わうオアシスもおつなものだ。カラフルないでたちでジョギングや壁テニスに興じる人たち、家族連れで賑わう遊具広場から聞こえてくる幸せそうな笑い声。目にするもの耳にするものすべてが私の波長に合っている気がする。
 
昼食を終えた私は、いつものように食後のコーヒーをやりながら、風薫る街並みを見下ろしている。診療の合間のつかの間、こころやすらぐひとときである。が、今日に限っては、午後の診療時間の最初にやってくる母子について思案を巡らせていた。2週間前、ちっちゃな男の子を連れて30代半ばくらいの女性がやってきた。相談内容は子どものアトピーだ。
 
問診のあいだも、男の子は、手といわず足といわず、まさにボリボリといった感じで掻きまくっていた。両手の指の間からは掻きすぎて血が滲んでいるほどだ。顔は真っ赤に腫れ、手首から肘、そして二の腕にかけて、ところどころ浸出液が見られる。服を脱がせると、ほぼ全身に症状が広がっている。お母さんの最大の悩みは、夜眠れないこと。子どもが痒がって寝ないからだ。
 
毎朝6時に起床。身支度をして朝食の準備。7時に子どもを起こし、必死の思いで7時45分に家を出る。子どもを保育園に預け、8時45分に会社到着。帰りは18時半に子どもを迎えに行き、買い物をして家に着くのが20時近い。来る日も来る日もこの繰り返し。このハードな日々を乗りきるための活力源は、なんといっても睡眠である。これを絶たれてしまうとすべてに支障が出始める。目の下には隈ができ、やつれは隠せない。

(続く)

感動する医者の話9

「いま現在は、おトイレのほうは一日平均何回くらいですか?」
 
私はいつものように、女性の右隣に腰を下ろす。毎度のことではあるが、女性にこの手の質問をするのは心苦しい思いで堪らない。現状をできる限り正しく把握しなければ、治療内容が定まらないのだから我慢していただくしかない。しかし、相手からしてみれば、面と向かって会話するよりは多少は気が楽だろう。これまで、何人かの患者さんからそういわれたことがある。相手の女性の立場になって考えてみればそうかも知れないなと納得する。
 
質問は続く。症状について。服用してきた薬の種類と量。薬のせいではないかと思われる副作用。食事療法の具体的な内容。平日および仕事がない日の生活のパターン。これまでに患った病気。アレルギーの有無 等々。
 
ややうつむき加減に彼女が答えるには、頻度としては一日15回から20回。そのほとんどが下痢で血便を伴う。状態はかなり悪い。ステロイドの副作用のせいか、顔は腫れぼったく、その表情は暗い。
 
ひと通りの質問を終えて、私は当院で行っている各種治療法について説明を開始する。協議の結果、漢方薬と胎盤組織療法で様子を見ることにした。30種類以上の生薬を煎じて、彼女のためのオーダーメイドの漢方薬を調合する。
 
診察室にいる間じゅう、彼女の藁わらをもすがるような視線が私のこころに突き刺さっていた。なんとか効果が出るといいのだが…。1年半以上にわたって彼女を苦しめてきた症状を少しでも改善してあげたかった。仕事・家事・育児だけでも大変なのに、重篤な病気までも背負わされているのである。私は祈るような気持ちで彼女の背中を見送った。
 
一ヶ月が経過して彼女が再び顔を出したとき、前回とは比べ物にならないくらいすっきりとした顔をしていた。何より、きちんと正面から私と目を合わせてくる。
 
「先生、おトイレの回数が1/3になったのです。血便の頻度も半分に。信じられません。初めて治療の効果を実感できたのです。」
 
潰瘍性大腸炎の患者さんは、9割近くが2~3ヶ月目に効果が出始める。彼女のケースは結果が出るのが非常に早かった。3ヶ月が経過する頃には、ほぼ普通の生活ができるまでになった。身体じゅうのむくみもすっかり取れた。その後は、今日現在に至るまで、漢方薬のみ毎月続けてもらい、隔月の頻度で胎盤組織(プラセンタ)の注射を行っている。
 
彼女の表情が、声が、こころが、日増しに生気を取り戻していくのがよくわかる。あれほどまでに苦しみ追い込まれていた患者さんが、本来のあるべき健康状態に返っていくのを見ることが、私の何よりの生きがいになっている。自分自身のことも含めて、医者なんて絶対のものではない。治せない、わからないのオンパレードである。

 でも、患者さんの病気を治せないばかりか、こころまで傷つけてしまう医者もいる。そんなつらい目に遭われた人たちに少しでも希望と勇気を与えられるよう、親切に、丁寧に、正直に、謙虚に、私は今日も比叡山に見守られながら診療を続けている。

(完)

感動する医者の話8

「そうでしたか。それはおつらかったでしょうねぇ。いゃあ、男性だってあの検査は恥ずかしいものですよ。女性ならなおのことです。」
 
腸は柔らかく長いので、検査自体にもリスクを伴う。大腸内視鏡検査はかなり技術的な進歩があることはまちがいないが、医者の技量によってはかなりのリスクがあると思ったほうがいい。とにもかくにも場数を踏むことが必要なのである。
 
大腸内視鏡検査と胃カメラは、最近の検査ブームもあって、医師が1人とか2人とかの診療所でも日常的に行われるようになっている。その反面、1000名に2人程度の割合で、ファイバーで腸を傷つけたり破ったりしてしまったという重大な事故が発生していると聞く。原因のほとんどが医師による内視鏡の操作ミスだそうだ。こうしたリスクを回避するため、特に腸が弱くなっている高齢者などは、バリウムを使う注腸検査が選択される場合が多い。
 
しかし、バリウムでもアレルギーを起こす場合があって、それによって腸に穴が開いてしまったという報告もある。検査の前に、気持ちを落ち着かせたり筋肉の緊張を緩めたりする目的で、鎮静剤や喉への麻酔を使用することもある。しかし、それによって急に気分が悪くなったり、稀にショック状態に陥ってしまうケースだってないとはいえない。結局、内視鏡検査にはリスクが伴うということだ。そのことをちゃんと理解したうえで検査を受ける必要がある。
 
もしも内視鏡検査を勧められたなら、その医者が月に何回くらい同じ検査を行っているのかを事前に確認したほうがいい。経験が多い医者ほどリスクは低い。カメラを入れてから抜き終わるまでの所要時間は、なんと3~4倍もの差が出ることさえ珍しくはないのだ。
 
さて彼女だが、大腸内視鏡の検査の結果、潰瘍性大腸炎と診断される。薬で大腸の炎症を抑えながら、食事療法および絶食で大腸を安静にして症状の改善を待つことになる。併せて、炎症が進んで下血があったため、ステロイドを使用することに。でも、早ければ1~2ヵ月で効果が出てくるだろうと言われ、こころに光が差した気がした。

「ここまでは最悪だったけれど、あと3ヶ月もすれば、霧も晴れるかもしれない。止まない雨はないんだわ。」
 

ところが、1年間通院しながら服薬と厳格な食事療法を行うものの、まるで改善の気配すらなかった。しかも段階的にステロイドの量が増えていく。顔のむくみもどんどん目立つようになってきた。この先、いったい自分はどうなってしまうのだろうか。
 
そんな不安と裏腹に、医者は平然と少しずつステロイド剤の処方量を増やしてくる。日に日に顔や手足のむくみが目立つようになって、一歩家の外に出れば人の視線が痛い。副作用に対する危機感がますます募っていく。いよいよ医者任せにはできないと、医学関連の本やインターネットで情報集めをしはじめた。そう、この段階になってはじめて、彼女は自立したのだ。自分の病気に対して、自分の明確な意思でもって立ち向かおうとしたのである。そして、不思議なご縁で私のクリニックに行き当たったのである。

(続く)

感動する医者の話7

医師から検査についての説明を受け、検査日を予約した後に採血。検査日の1週間前から食物繊維を多く含む食事を控えるように言われた。検査前日の夜9時に、予め渡されていた下剤を飲む。まずくて飲みづらい。飲んで2時間もするとトイレへ。
 
検査当日は、朝食・昼食抜きで、処方された薬と胃腸薬を飲む。そしてニフレック(経口腸管洗浄剤:腸管内を洗浄流去する為の経口の薬剤で、大腸内視鏡検査や大腸手術の前処理として使用される)を2リットル飲む。美味しくないのはもちろん、とてもじゃないが量が多すぎる。1リットル近く飲んだところでトイレへ駆け込む。その後は、何度も何度も。吐き気もしてきた。つらい。どうしても全て飲むことができず、残ったニフレックを持って病院に向かう。運良く便の状態が良かったのでどうにか検査を受けられた。
 
フラフラしながら検査室に入り、検査台でうずくまるように横たわる。痛み止めの注射をすることもなく、肛門からカメラが入れられた。カメラが奥に進むに連れ、お腹が痛くなり、熱く感じる。空気を入れているような感じでお腹が張ってくる。カメラが腸内を曲がるときは激痛が走り、そばにあった点滴を支える棒を必死で握り歯を食いしばった。
 
医師からは「楽にして」と言うが、そんな簡単なものではない。例え医者でも、自分がやられたことのない人にわかるはずもない。ガスが出ると少し楽になるが、やはりまだまだ痛い。それにしても、なぜ痛み止めをしなかったのか? そんな疑問も苦痛の前にどこかへ飛んでしまう。その後、カメラがうまく進まなくなり、身体の向きをいろいろな向きに変えられたが、これがまたつらい。唸らずにはいられない。
 
意識が朦朧とするなかで検査室を見渡すと、検査を待っている他の患者さんたちが数人いる。プライバシーというものはないのか。すごく恥ずかしい。このつらさと惨めさはなんだ。医者はうまく進んでいるからと言うものの、痛くてもう何がなんだかわからない。
 
カメラが奥まで届くと、身体の向きを変えモニターを見る。「腸は綺麗になっているようだね」と医者。この人を喰ったような物言いがストレスを掻きたてる。するとまた痛みが…。粘膜を採取され、今度はカメラを抜いていくのだ。行きも帰りも、やはり痛い。
 
検査が終わり起き上がるとお腹が痛い。
「今日は痛み止めを注射しなかったのですか?」
 
たどたどしい口調で医者に尋ねてみる。
「ああ、使わなくて済む薬はなるべく控えるようにしたほうがいいんですよ。」
 
なにか違うような気がする。痛みに耐えて、耐えて、耐えていたのはあなたではない。この私なのだ。それ以上、医者とはもう口もききたくなかった。
 
血圧を測り、少し横になってから車いすで検査室を出る。病院のベッドでしばらく横になり、お腹のガスを出してから洋服に着替える。支払いを済ませて外に出ると、涙が頬を伝ってきた…。

(続く)

感動する医者の話6

車道からハンドルを切ってクリニックの敷地内に入るとすぐ、紺碧の地にゴールドの文字をあしらった、患者さんたちには洋風で小洒落ていると好評の当院の看板がある。そのまわりを女郎花の黄色が鮮やかに包み込む頃、三重のほうから彼女はやって来た。年の頃は50代はじめ。ご主人とふたりのお子さんがいる。さらに会社勤めもこなすひとり3役である。こういう女性が厄介な病気まで抱えてしまったとしたら、その心持ちたるや、それはもう言葉には尽くせない地獄絵だとお察しする。
 
予約の電話では、1年半ほど前に三重市内の病院で、潰瘍性大腸炎の確定診断を受けているという話だった。が、その後の治療の甲斐なく、それはそれはつらい毎日を過ごしておられた。会社までの往復は、とくに大きな悩みになっている。いざという時にトイレを探していたのでは間に合わない。いつもの通勤経路上に20ヶ所以上、トイレの在りかを脳みそに刷り込んでいる。たまに満室状態だったりすると、間に合ったという安堵感があったぶんだけショックが大きい。彼女は、いつしか紙オムツで備えざるを得なくなった。
 
かなり前から、お腹に刺しこむような痛みが走ったり、下痢が続いたりして不安に思っていたそうだ。そしてある日、職場で突然、腹痛と下痢がほぼ同時に起こったため、気になって帰宅途中に自宅近所の診療所に立ち寄った。
 
待合室にいるあいだにも、何度もトイレに行った。ようやく診察室に呼ばれて医師と話をしたが「気にすることはない」と言われ、薬を処方してくれただけだった。が、フラフラしながら薬局に向かう途中も、普段なら何でもない距離が異様に遠く感じられた。薬局で薬が出るのを待っているだけでもとても辛かった。
 
「もう、なんでなの?」
 
彼女は自分自身の身体を呪ったという。
 
その晩は何度もトイレに行ったものの、薬を飲んだ翌日は腹痛と下痢がなくなりホッとした。しかし数日後、下痢はなくなったものの便の色は赤く、下血していることは明らかだった。極限の不安にかられ再び診療所に出向くと、検査のためということで、市内では中規模の病院を紹介された。
 
病院はとても混んでいた。2時間以上待たされる間、何度も何度もトイレに行った。トイレの回数は日に日に増えてくる。ひどい時には、1時間の間に10回近いことさえあるのだ。診察の順番が来たときには、既にグッタリとしていた。医師からは慢性的な大腸炎ではないかと言われ、さらに「この病気は一生続くよ」とも。無神経にもほどがあると思えるようなその言葉に、彼女は奈落の底に突き落とされる。職場で勤務時間中に何度も離席して、他の職員から怪訝な目で見られている自分の姿が浮かんできた。目の前が真っ暗になる。

(続く)

感動する医者の話5

さて、そしてやがて、最期のときがやってくる。比叡山が雪化粧をしはじめた頃のことだ。彼の危篤状態を知らせる電話が奥さんから入ったのは、夜10時過ぎのことだ。私は手早く準備をして、神戸に向けて車を走らせた。いつしか舞い始めた風花が、先を急く心を妨げた。彼が待つ病院に到着したのは、ちょうど日が変わるかどうかといった頃だったように記憶している。集中治療室に入れられた彼とどうにか対面することができた。
 
後に奥さんから聞いたのは、彼が私の到着を待っていたのだと思う、ということ。いつ逝ってもおかしくない状況が数時間続いたのだという。それは医者冥利、というか、一個の人間対人間の関係として、非常にありがたいことだ。最後の最期まで私を信頼していてくれたことの証のように感じられて、素直に嬉しく思う。
 
ベッドに横たわる彼の頬は痩せこけ、以前の彼とは別人のようだった。奥さんが眼鏡をあてがうと、瞳がゆっくりと左右に動き、やがて私のそれとピタリ重なった。私は両の眼に力を込めて、全身全霊で彼の瞳を見つめながら、力なく宙を彷徨う掌を握りしめた。
 
「●●さん、来たよ。来ましたよ。連絡をありがとう。2年間もの間、よぉくがんばりましたねぇ。すごいがんばりました。ありがとう。本当にありがとうございました。」

 

私の声が届いているのかどうか。瞳が頷いたような気がした。1分か2分のことだろう。息を呑むような静寂のなか、やがて彼の瞳は私と奥さんの間を行き来するようにして、そしてそっと顎が落ちたのだった。私は心のなかでそっと手を合わせた。ここから先はご家族だけの時間である。他人が居続ける場ではない。私は奥さんに黙って頭を下げ、もう一度彼に話しかける。
 
「ご苦労様でしたね。見事でしたよ。本当にお疲れ様でした。ぐっすりと休んでくださいよ。ありがとうございました。さようなら。」

 

心のなかで彼に敬礼し、集中治療室を出る。歩き出した廊下に、奥さんやご親族の泣き崩れる声が響いている。こういう場面は、何度体験してもつらいものだ。そしてやるせない。心のなかのどこかに、この私だって彼の命を救えなかったのは一緒ではないかという痛惜の想いがくすぶっているからだ。外に出ると、寒々とした蒼月が白く霞がかっている。大津への夜道を引き返しながら、私は彼と共有した時間をひとつずつ手繰っていった。

(完)

感動する医者の話4

そして今現在でも、私のクリニックを訪れる患者さんからは日常茶飯にこんな話を聞く。
 
「手術は成功。目に見える限りのがんはきれいに取った。抗がん剤で再発を抑えれば問題ない。そう言われて、副作用に苦しみながらも治療を続けてきた。にもかかわらず、転移が見つかったと言われて・・・」。
 
私も若い頃感じていたこの疑問の答えはこうである。医者は、開腹してみて目に見えるがんは全部取る。けれども、目に見えないがんは取れないのである。だから、目には見えない転移をも配慮して可能な限り広範囲を切除する慣習があったのだ。ただし、現在では患者さんの負担を軽減すべく、極力メスを入れる範囲を小さく抑えようという流れになりつつはあるが。
 
そして、もうひとつ。抗がん剤の有効性についてである。実は、わが国の抗がん剤の認可基準は、「有効率20%以上」となっている。わかりやすく言うと、ある医者がある抗がん剤を10人の患者に投与したとする。そのとき、他の8人には効かなくても、2人に有効性が認められれば認可してあげましょうということ。これが日本の医療の真実なのである。
 
では、「抗がん剤の有効性」の定義とはなんなのだろう。
驚愕の回答はこうなる。「ある患者さんに対してある抗がん剤が有効であるという場合、“有効”の定義は、もともとのがんの大きさが半分程度に縮んだ状態が4週間程度続くこと」なのだ。EBM(根拠に基く治療)を強く掲げる西洋医学において、抗がん剤の定義がこの曖昧さとは、矛盾も甚だしいではないか。
 
臓器にメスを入れられ、髪の毛が抜けたり、吐き気がしたり、そんなつらい思いをしながらもじっと我慢して抗がん剤を服用し続けている患者さんたちは、果たしてこの真実を聞かされているのだろうか?患者さんたちは、この苦しみを乗り越えた向こうには健やかな日々が待っているのだという希望があればこそ、つらい治療に耐えているというのに。
 
もしも仮に、「がんを取り除いた後は抗がん剤で転移や再発を防止します。ただし、抗がん剤は10人中2人にしか効かないですけどね」という事前説明を受けていたとしたら、だれが身体じゅうに不快感をもたらすあんな強い薬を使うものか!こういうところが日本の医療の、そして日本の医者たちの良くないところだと思う。インフォームド・コンセントは、一体どうなってしまったのだろうか?
 
これはある医者仲間の話。
「うちはがん家系なんですよね。4年前に父が逝ってしまったんですが、年齢的なこともあったし、手術はしませんでした。もちろん放射線も抗がん剤もやりませんでした。ああいうのはまっぴら御免ですから。」
 
正直でよろしい。ならば患者にも正直に真実を伝えて欲しいと強く願う。

患者さん側の防衛策としては何か考えられるだろうか。もしも運悪くがんが見つかったとしても、慌てて治療法を決めないこと。ひとりでも多くの医者に、「あなたの家族がこの状態だったらどうするか」について見解を聞くこと。可能な限り手術はしない道を考えること。どうしても手術ということになってしまったら、何をもって手術が成功したと言えるのかという“成功”の定義、術後の治療法、退院後の生活イメージ等を詳細かつ具体的に納得できるまで聞き出すこと。その上で、自分自身で納得のいく治療法を選択することくらいしかないだろうと思う。

とにかく、抗がん剤はたったの2割の人にしか効かない。退院後、効きもしない強い薬で最悪の日々を過ごした挙句、結局は数年以内に再発してしまう可能性が高いという真実を、是非頭のどこかに入れておいたほうがいいと思う。そして、ご自身や愛するご家族は自ら護っていくしかないという意識と、そのための勉強を心がけていただくのがいいと考えている。
 

(続く)

感動する医者の話3

手術のために入院する直前、このあたりのことについて時間をかけて本人と奥さんに説明した。歯科医であるご本人同様、元ピアニストの奥さんも知性と良識を持ち合わせた立派な方だった。私の話をよく理解したうえで、病院で術後の抗がん剤治療を受けながら、並行して私の処方する漢方薬を服用するという治療法を選択された。帰り際、誰かが駆け寄る足音に振り向くと、奥さんが車のところまで送りに来てくれた。
 
「できるものなら・・・。なんとか、なんとか次の誕生日まで生きさせてやれないものでしょうか。」
 
そこには気丈に振舞うご主人はいない。目からは堰を切ったように真珠の涙が溢れだした。気持ちはわかる。痛いほどによくわかる。しかし、無責任な気休めを私は言えない。
 
「大変ですね、本当におつらいと思います・・・。奥さん、医者にもですね、人の寿命というものはわからないのです。ましてや寿命云ヶ月などというのは科学的に根拠のあるはなしではない。それは、検査結果によるがんの進行状況と過去の経験値から割り出した平均値のようなものなんですね。実際に私は、寿命3ヶ月と宣告された患者さんがその後何年も生きたという例をたくさん見てきましたよ。奥さんの願いが叶うように、一緒に祈りながら薬を煎じさせてもらいます」。
 
そう言って軽く頭を下げ、そして目を上げる。奥さんの涙はとまらない。
私は彼のために約30種類の生薬を煎じ、毎月送り続けた。たまに奥さんや義理のお母さんから経過報告の電話が入った。最初のうちは悪い知らせではないかとビクッとすることもあったが、がんの再発も抗がん剤の副作用も出ずに、季節が過ぎていった。
 
結果的に胃を全摘出した彼であったが、抗がん剤の副作用もさほど出ず、退院してから2年近くもの間、元気に歯科診療を続けたのである。義理のお母さんなどは、もしかしたら奇跡的に治ったのではないかなどと言うほどに、傍からは大手術を受けたとはとても思えないような日常だったという。
 
その間、奥さんの願いであった誕生日を2回迎えることができた。家族揃ってオーストラリア旅行にまで出かけられた。がんにならなければ、こんな思い出は作れなかったと家族みんなが口を揃えた。私としては、がん患者の方たちが必ず苦悩する、抗がん剤の副作用を回避することのお手伝いができたということで納得はしている。
 
しかし、いま同様のケースに遭遇したとしたら、手術を選択するという患者さんに対して、あの時と同じ対応はしなかったかも知れない。寿命3ヶ月を2年まで延ばせたことは事実であるが、やはりがんは再発したのである。後に経緯を聞くにつけ、量的にも質的にも抗がん剤治療は凄まじかったことがわかってくる。
 
ところで、がんの手術について、患者が知っておかねばならないことがある。私が医療現場にデビューした頃から感じはじめ、やがて確信するに至ったことだ。それは、がんが発見されて摘出手術に成功した患者さんのほとんどが、いくら放射線を当てたり抗がん剤を服用したりしても、数年以内に再発または転移が見つかり結局はがんで死んでいくということだ。

(続く)

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