宮沢賢治
広く老若男女に愛され読まれ続けている作家の一人、宮沢賢治。『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』は、東日本大震災の被災者にも勇気と希望を与えてくれた。しかし生前、宮沢賢治はまったくといっていいほど評価されなかったという。皮肉な話である。
1896(明治29)年、岩手県の花巻で生まれた賢治は、高校・大学時代を盛岡で過ごし、農業・地学・地質学・化学・天文学などを幅広く学んだ。25歳のとき、身につけたことを地元に還元すべく花巻に戻り花巻農学校の教師となる。大学の研究室に残ることを奨められながらもふるさとに戻ってきたのは、習得した科学技術を応用して、日照りや冷害で被害を受けていた地元の農業を救おうと考えたからだ。
が、そんな彼に故郷は冷たかった。教壇に立つ傍ら、農村の青年たちを指導し、詩や小説を書き、万物が救われることを寒行で祈る賢治だったが、完全に拒否され、無視され、冷笑される。「きちがい賢治」などと罵られながら。故郷とは、残酷な側面を持っている。高い志を持って何かをやろうとする人や、人と違うことをやって抜き出ようという人の足を引っ張る。
そんな孤独な賢治の唯一の理解者が妹のトシだった。しかし、賢治26歳のときに彼女は結核で他界。最愛のトシを看取った賢治は3日3晩、押入れで号泣したという。その絶望感を抱き、賢治は函館から樺太をさまよい歩く。そこからだ。後世に残る数々の作品が生まれるのは。
やがて賢治も結核を発症。死が近いことを悟る中、恐怖におののきながら助けを求めるように書かれたのが『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』だ。本編の前後には、賢治が信仰した日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」が繰り返し記載されている。「デクノボウニナリタイ」と人間界を否定し、忍び寄る死への恐怖にもがきながら生み出された『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』、である。それがいま、生前の賢治をバカにし続けた東北に光を投げかけているとは・・・。不思議なものである。
1896年。賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」が発生し、岩手県に多くの災害をもたらした。また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」が発生。秋田県及び岩手県に多大な被害があった。賢治が死んだ1933年。この年3月3日に「三陸沖地震」が発生。賢治は、故郷を襲った大災害を病床で憂いたという。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、地学・地質学・天文学に通じ異常気象を憂慮していた賢治の生涯と、因縁めいた何かを感ぜずにはいられない。
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