結婚について


結婚。それは、いかなる羅針盤もかつて航路を発見したことがない荒海。結婚とは二人のエゴイストの共同生活に他ならない。これをかろうじて相互に妥協させ許し合わせるものが、当初にあったところの愛着である。愛する者同士の結婚ならば、結婚後に露出されるエゴやわがままを我慢するだけの愛着がしばらくは維持される。愛情とは結婚生活において育まれるものではなく、愛情が両方にある場合だけ、お互いの醜さを耐えるだけの我慢を持つことができるのだ。

要するに、愛の貯金を食い潰していくプロセスなんだよな。だから当事者のうちの一方が相手に対する憐憫の気持ちからする気になった結婚は不幸なもの。そもそもが愛してない相手の、日ごと表れる醜い部分を消化しきれない。結婚の課題は、何よりも生活していくこでと、実はこれには必ずしも愛を必要とはしない。 

愛の死滅後に始まる共同生活に必要となるのは、一に生活力。二に人間としての聡明さ。三に妥協の技術。そして生活力とは、間違っても愛の果実などでは決してない。価値観の相違からくる二人の間の溝を、愛の寛容で忍耐を重ね、長い年月をかけて埋めていくのが結婚という作業である。人格も性格も異なる二人が、どこまで相手に順応できるか、歩み寄れるか、努力するのが夫婦の共同生活だ。自分からは相手に順応しようとせず、なにがなんでも相手にこちらへ来いと歩み寄りを強要する夫が悪夫であり、妻が悪妻と呼ばれる。

夫婦は独立した個人と個人の共同体。互いに別の世界を持っていて当然だ。相手の世界を認め、いかなる事態になっても立ち入ってはならないと心に決めておけば、そこが時として生じる摩擦や衝突の緩衝地帯の役割を果たしてくれるだろう。そうした人間関係を成立させるためには、お互いに対等な人間として認めあい尊敬しあわなければならない。生まれた場所も育った環境もまるでちがう男女間に、完全なる価値観の一致を期待するほうがそもそも無理。これを一致させようなどと考えると、ひずみが生まれ次第に大きくなり、やがて埋めがたい亀裂となる。

愛が消失した夫婦が営む冷えきった家庭に育つ子どもほど不幸なものはない。いかに心の離れた夫婦でも、子どもを育てるためだけに一緒に暮らすべきだという意見には賛成できない。愛なき夫婦間に育つ子どもの不幸を少しでも早く、少しでも多く償うために離婚すべきではないか。夫と妻の心身のつながりがなくなり、それを再び求めることが不可能になったとき、一緒に生活する苦痛ほど人間を傷つけるものはない。その苦しみから一組の男女を救うのが離婚である。果たしてどちらに離婚の責任があったのか。どちらにもあったのだ。


男は女によって生きてくる。女は男によって生きてくる。女を女らしくできないような男は男じゃない。男を男らしくできないような女は女じゃない。

リーダーはジャッジしなければならない


今年は、20世紀最大の海難事故、タイタニック号事件からちょうど100年。大西洋を航海する大旅客船が氷山にぶつかって沈没した。2,200人の乗客のうち生還者はわずか700人。映画を観ると、1,500人もの人たちが最期をどのように迎えるかが鮮烈に描かれている。そこにとどまり客船と運命を共にするものと、救命船に乗って生き残るものが、沈みゆく船上で選別された。生還できるのは子どもと女性たち。大人の男性はみな船に残る。これが原則だ。父親は船に残り、奥さんと娘は救命船に乗る。永遠の別れ。最終的な人数調整の段階で高齢の女性も死を覚悟する。死に行くものと生き残るものが選り分けられるドラマ。しかし、この選別を受け入れることのできないものが現れる。「俺も乗せてくれ」と言って、救命船に乗り込もうとする男がいるわけだ。救命船の船べりに手を伸ばし、叫ぶ男たち。その手をもぎとって海へ放り捨てる女性たち。オールで腕を断ち切られる者さえいる。そういう悲劇があった・・・。

「乗せてくれ」とすがった人間の手を振り払った人間は、その人間を殺しているに等しい。その殺人の罪の意識からは生涯逃れることはできない。でもそんな罪を犯す可能性は誰にもあって、自分だけは違うなどと言える人間はひとりもいない。危機的状況の中で、一人ひとりが命の問いを突きつけられたのがタイタニック号事件だった。どう選別するのか。それを受け入れるのか。こういったことに顔を背けることなく直面できるのがリーダーというものではないか。どちらを選択するか、非常に困難な状況が次から次へと押し寄せてくる。それに耐えて、選択しなければならない。それがリーダーたる人間の運命だ。

生き残りの戦略。旧約聖書の最初に出てくる「ノアの箱舟」の物語。大昔、この地球上に大洪水が襲ってきた。それによってほとんどの人類が滅亡してしまう。そのとき、神の許しを得てノアという人物の家族だけが生き残る。彼らだけが小さな船を作り、大洪水を乗り切った。それゆえに、今日の我々がこうして生きているわけだ。人間、どうすれば生き残ることができるか。これが生きるうえでの最重要目的となった。ほとんどの人間が死滅しなければならなくなった場合でも、わずかな人間だけを生き残らせる。そうすることで種の絶滅を回避するという考え方。人類の歴史は、創世記から今日までこの考え方を継承している。

さて、日本だ。国家の借金1,000兆円。政治・経済・社会、すべてのインフラが崩壊寸前の今、小手先の改革では何も事態は変わらないことは、永田町&霞ヶ関の住人も百も承知だ。どの政治家も、自分がジャッジすることから逃げているのだ。ジャッジした途端に袋叩きになることがわかっているからだ。政治生命は終わるだろう。しかし、このままでは国民総倒れである。タイタニックではないが、今こそ選別のときだ。この国が生き残るための戦略を毅然と言い放てる革命者が求められる。戦略とは優先順位だ。

ニッポンを滅ぼさないために、断腸の思いでジャッジしなければならない。東日本大震災の被災地。本当に気の毒ではあるが、復旧復興は最低限にすべきだ。被災前に機能していなかったものまで復旧させることの無意味さを真摯に認識すべきだろう。公務員。中央と地方を併せて400万人。人件費は半分まで下げる。高齢者と障害者。申し訳ないが、年金給付は減額せざるを得ない。医療と介護の費用減免はなし。生活保護受給者。これも大幅カット。みんなが苦しいのだ。働いている人たちよりも多くの収入があるなどという話は罷り通らない。受刑者も同様。最低限の生活レベルで我慢してもらうしかない。あえて優先順位をつけなければ、この国全体が沈んでしまうのだからやむを得ない。

八方美人のトップはもう要らない。命を賭して、公務員・高齢者・障害者・生活保護受給者・受刑者らの既得権益を削るべく大号令をかけられる、そんな革命者が今こそ必要だ。

今こそ変わるとき

病院では、これまで権威主義だけが精彩を放ってきた。医師というのは、周囲の人たちから尊敬を受け、非常に高い社会的地位を得てきた。世間と比べれば、相対的に報酬も高い。しかし、彼らの目から見れば、患者というのは痛みや苦しみから救われることを求める哀れな人間にしか見えない。看護師をはじめとする他の職員たちも、医師と同様の感覚で患者に接しているのではないか。

患者に対する気配り、思いやり、温かい対応について、もう一度ホスピタリティの原点に立ち返って考えて欲しい。医師と患者の心の通ったコミュニケーション、看護師の患者に対する博愛精神を持った対応、受付の懇切丁寧な立ち振る舞い、ヒューマンタッチな病院施設の拡充・・・。これらに努めれば、患者からも感謝され、職員も勇気づけられ、病院再生の格好の機会となるだろうに。

最近では、これらの条件を満たしているところも少なくない。が、これだけではホスピタリティ・ビジネスとしては不十分だ。患者の症状というのは十人十色で一人ひとり異なるし、体質も異なる。患者個々に異なる対応が求められる。つまり、One-to-oneの関係において患者と接しなければならないのだ。これこそがホスピタリティの本質であり、病院にとっては、個々の患者を真剣に丁重に治療することがもっとも基本的なミッションに他ならない。

残念ながら、殆どの病院では、患者自身のことよりも施設内の患者処理システムの方を重視している。システムによる効率化に熱心な余り、人間的な接触をできるだけ避けようとしているようにすら感じてしまうことがある。その方がコスト削減には効果的だと言い切る経営者さえいる。どうも、ミスの減少とコスト削減の一挙両得だと錯覚しているようだが、とんでもない誤解である。そんな考え方が医療ミスの原因になっていると言っても過言ではない。


システムやテクノロジーを動かすのは人間である。病院の職員である。思いやりのある病院というのは、単に職員をロボット化することではなかろう。患者に満足のいくサービスを提供するには、医師を含めた職員全体の意識改革をすることが必要だ。患者がその医療機関をいかに評価するかは、患者が職員と接触する「真実の瞬間」によって決まるのだ。そのためには、患者に対するホスピタリティ・マインドを全職員に徹底していかねばならない。

見習うべきはディズニー&リッツ

もはや、語りつくされた感のある東京ディズニーランド。ここは世界一の集客力を誇るテーマパークだが、ここでは、私たちに2種類の感動を与えてくれる。施設による感動と人による感動である。この両方がミックスされることで初めて、来訪者の7割がリピーターになるという信じられない状況が生まれている。 

アトラクションに代表される施設面は、常に更新し続けなければ感動してもらえない。
一方、人的サービスによる感動は、施設とは違って、絶えず新しいものを作り出していく必要がない。加えて、人間関係によって生まれた感動は、一度生まれると、それが長い間、人の心に残る。だから、感動してくれたお客様は、2度3度と繰り返し来てくれる。これがTDLの示唆ではないか。施設によるサービスももちろん大事ではあるけれど、一般に、人間はハード面でのサービスにはすぐに慣れてしまうものなのだ。
 
CS(顧客満足)で頻繁に採り上げられるリッツカールトンホテル。外観はシルバーホワイトにきらめくモダンな高層建築だ。一歩建物の中に足を踏み入れると、一転して18世紀の英国貴族邸宅を思わせる優雅なムードに包まれる。磨き上げられたレッドブラウンの大理石の床、マホガニー材をふんだんに使用した壁、片隅には暖炉のあるロビー、18世紀ヨーロッパの絵画やアンティークが風格と温かみを演出し、まさに一級品のホテルだ。 

が、しかし、お客様というものは、何度か訪れるうちに、この豪奢な雰囲気にすら慣れっこになってしまうのである。だから、リッツにおいても大切なのはソフト面のサービスであり、スタッフひとりひとりによる心配りが重要だ。これを反復学習するのだ。スタッフひとりひとりの心による温かみのあるサービス、個々のお客様にあったパーソナルなサービスというものが大切になってくるわけだ。

病院のルーツはホスピタリティ


話を医療機関に戻そう。“止まらない医療ミス”は、衝撃というよりも恐怖である。病院のことを英語でホスピタル(hospital)とかホスピス(hospice)という。本来、ホスピタルやホスピスはホスピタリティとルーツは同じである。治療に訪れる患者を優しく治癒することが目的であり、病院というところは、患者や外来者に対して親切に厚遇すべき場所の筈である。ところが、昨今の大学病院や公的病院で発生する注射ミスや手術ミスなどは、信じられないニュースとしか言いようがない。


そもそも大病院に患者が集中する理由は、一般の開業医よりも、医師の知識や経験、カバーし得る領域、検査機器等の設備など、あらゆる点で自分の病気を正しく診てもらえる確率が高い、そんな患者の信頼の表われである。それなのに、そうした大病院に限って医療ミスが続発しているのだ。「人間のやることだから」では済まされない人為的ミスであり、まさに人災という以外に言葉が見つからない。こうした事件が発覚するたびに、当該病院の医師たちは記者会見をして陳謝している。

しかし、病院で働く医師、看護師、その他の職員たちは、果たして自分たちがホスピタリティ・ビジネスに従事しているということをどの程度自覚しているだろうか。病院では、患者は問診票を書かされ、さまざまな質問をぶつけられる。医師や看護師の前で裸にされたり、寝かされたり、彼らの思うように奴隷のごとく服従を迫られる。そして、十分な説明もないままに注射され痛い目に遭わされる。入院患者の場合はもっとひどい。見舞い客の訪問時間も制限され、完全看護ならぬ囚人扱いである。そこにはプライバシーもなく、食欲のわかない最低限度の食事しかあてがわれない。まるでトイレと最低限の食物を与えられた拘置所の囚人と何ら変わらないではないか。医師や看護師たちは、ホスピタリティという言葉を知っているのだろうか。

医療機関にとってのロイヤルカスタマー

ロイヤルカスタマーとは、例えば「私はいつもあそこの診療所に通っているから、誰々先生を紹介してあげましょう。」というように、新しい患者さんをご紹介いただけるような患者さんを指す。既存の患者さんのご協力が得られるようになるということ。

もちろん、スタッフがただ患者の名前と顔を覚えているというだけでは患者さんのハートを掴むところまではいかないだろう。そこで、患者さんに感動される接遇を心がける必要がある。

感動というのは、相手が予期せぬことをしない限り発生しない。しかし、一度感動が生まれれば、それが印象として残り、いわゆる口コミとして広がっていくわけだ。


私は、社会人になって最初の仕事で百貨店との関わりを持って以来、「サービス」というものについてあれこれ考える機会を多く持ってきた。どうすれば、あのお客様が何回も繰り返し買物をしてくれるだろう。どうすれば、年間10万円しか買ってくれていないお客様が、年間100万円買ってくれるようになるだろう・・・といった具合に。

突き詰めてみると、サービスには、施設などのハードウェアによるサービスと、人による接遇等のソフトウェアによるサービスがある。これらを駆使して、患者に感動を与えることがサービスの目的ではないかと思う。

病医院にいま求められること


これらの中でも目玉と言えるものはなんだろうか。さまざまな苦痛や不安を抱えてやってくる患者さんたちに提供すべき最大のサービスとは、自院の「空気・空間」そのものではないだろうか。で、この空気や空間を作り上げるもの。それは言うまでもなく、その場で働いているスタッフひとりひとりに他ならない。医療機関にとっては、「人こそが目玉商品」であるべきだ。

働く人の姿勢が、その医療機関の空気をつくる
働く人の笑顔が、空間に和みをつくる
働く人の温かい声が、患者さんを勇気づける

そういうことではないだろうか? 診察室の向こう側で、どんなに腕の立つ医師が待っていたとしても、そこに辿り着くまでに接するスタッフの言動がそっけないものであったとしたら、医師の診療は本来の評価を失うことになるのだ。

そういう意味では、患者(特に、新患)が苦痛に耐えながら貴院

のドアを叩いたときに最初に接するスタッフ、つまり受付の対応は極めて重要になる。受付に対して患者がどのような印象を持つか。これによって、患者さんの貴院に対するスタンスが決まるのだ。ここでマイナスのポジションを取られたら、恐らく何をやっても患者を満足させることはできないだろう。

当然のことながら、患者はひとりひとり皆異なる存在だ。患者さんの心を掴もうと思ったら、患者ひとりひとりに関心を持ち、患者さんの情報を集め、個別の対応をしなければならない。そうした対応をうけた患者さんは、かなりの確率でロイヤルカスタマーに変わっていくという事実を私はデータとして把握してきた。(続く)

サービス業における付加価値とは

今後ますます、医療業界においても生き残っていくためには高い価値を提供することが求められてくるだろう。では、価値とは一体なんだろう。昨年亡くなられた日本マクドナルドの藤田会長からの教えを引用すれば、「付加価値=商品力÷価格」で表すことができる。 

サービス業である医療機関であれば「付加価値=サービス力÷価格」となる。商品やサービスが一定であれば、価格が安いほど価値は高い。逆に、価格が一定であれば、サービス力が高ければ高いほど価値は高いということだ。わが国の医療システムに当てはめるならば後者となる。
では、医療機関におけるサービス力とは何か。勿論、診療行為そのものが本質であることは否定しないが、先述したように、それが全てと考えるのはリスキーだ。診察・治療以外に、「接遇」も「内装」も「立地」も「企画」もサービス力の重要な構成要素である。

接遇:もし自分が患者だったら、して欲しいと思うような言動を徹底してやる
内装:患者の不安や苦痛を少しでも和らげるような環境提案。清潔であることは大前提。
立地:便利な場所を安く借りることで、価値は一気に高まる。
企画:明確な自院のコンセプト表現や各種催し物の提供。

これらをひとつひとつレベルアップしていくことこそが、今の医療機関に求められていることではないか。(続く)

患者に選ばれる医療機関になるために


以上の話からわかるのは、患者に感動を与えるのは医療の本質である診立てや治療の技量ではなく、医師やスタッフの対応や彼らが作り出す場のムードだということ。私なりに分析するならば、医師の腕前(医療技術)はそもそも一般人には評価ができない。はっきり言ってしまえばわからないのだ。また、建物自体や診察室・検査室・待合スペース等といった施設面や検査機器等の充実ぶり(ハードウェア)に対しては、患者はひとたび慣れてしまえばそれが当然となってしまい感動には値しなくなるものだ。

しかし、人間系のサービスはちがう。一度、気の利いた言葉や思いやりある言葉をかけてもらった患者の心には、その瞬間の一部始終がインプットされ、記憶として定着するのである。特に、人間、自分が弱い不安な状況にあるときに誰かに温かく接してもらう程感激することはない。

しかも、多くの医療機関がサービス向上を謳いながらも現場に浸透していない実態からすると、この人間系のサービスを改善することは、極めて即効性のある差別化施策になるはずではないか。極論すれば、貴院が地域になくてはならない医療機関として定着するための切り札は、医師も含めたスタッフひとり一人の心配りある言動ということになる。


幸いにして、一般のひとたちは医療機関に対して、ホテル業界やディズニーランドに求めるような高品質な接遇を期待していない。というか、なかば諦めている。この事前期待が低いからこそ、彼らに感動や感激をもたらすことは比較的容易なのである。これを利用しない手はないではないか。(続く)

変わり始めた地域医療機関


さて、東京へ戻ってから・・・。有給休暇を取得した私は、これまで仕事上の付き合いのあった医療機関の中から、高齢者医療では定評のあるA病院を選択。事務部門の責任者に事前相談の電話を入れた。その上で、父母を連れて院長の唯一の外来診察日である日曜日にA病院を訪れた。巷で人気の高い院長唯一の外来日である。予想以上の混雑であったが、受付に保険証を差し出してから起こったことを書き上げてみよう。

患者でごった返す待合室に、かろうじて父母が腰を下ろすスペースを見つけてまもなく、社会福祉士を名乗る職員が登場。私が事務長に電話で伝えた経緯の確認にやってきたのだ。じっくりとこちらの話を聞き、母が倒れた原因と想定される父の状況を含めて、A病院グループとして対応できることは何か、A病院では対応できないが紹介できる地域のプレイヤーはどこか、これからの流れについて説明をしてくれた。そして、やや離れた場所に居た父母に近づき、気遣いある言葉を投げかけてくれたのだった。そして、看護師は、初診患者用の質問シートを埋めた後、ほぼ15分間隔で待ち時間の目安、その時点で何番目なのかを腰をかがめて伝えに来てくれた。

そして、いよいよ診察室に入る。そこには何年ぶりかに顔合わせをする院長がいたが、こちらに気づくと彼はスッと立ち上がり、「いゃあ、長いことお待たせしました。」と頭を下げた。母には、血液検査とCTスキャンの段取りと、脳神経科の専門医に再診を勧めるとともに、通院困難時の往診を案内してくれた。診察室の片隅で不安そうに佇む父に対しては、両手を握りながら、心配しなくても大丈夫だと勇気づけてくれた。

検査の結果、母の健康状態は医学的には問題がなく、やはり痴呆の出始めた父と四六時中ともに生活していることによる心労が原因と判断するのが妥当ということであった。通院する過程で、父も院長に心を寄せるようになっていくのだが、出てくるスタッフの対応がいずれも心地よい。基本的に、こちら側を労い、受け止めてくれる寛容さが感じられるのだ。今では私が付き添うことなく、父母だけで通院しているのだが、先日はこんなことがあったそうだ。

いつも受けっぱなしの市主催の健診に意味を見出せなくなっていた母が、ふたり揃ってA病院で定期的な健診を受けることを切り出したときのこと。件の院長は、カルテを記載する手を止め、襟を正して立ち上がり、「是非私どもでやらせて下さい。お願いします。」と頭を下げたというのである。母は思いがけない院長の姿勢に感激し、私の携帯にその感動を伝えてきた・・・。

一連の話から、患者側の心理を理解している医療機関もあるにはあるということ。そして、現時点ではほんの一握りしか存在しないが、真に患者視点のオペレーションを実践している医療機関こそが、これからの医療飽和の時代に、「地域になくてはならない医療機関」として勝ち残るためのパスポートを手中にできるということである。 (続く)

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