健康観…持ってますか?
みなさんはいかがですか?
健やかで幸せに生きていくためのポリシーのようなもの・・・。
何かお持ちですか???
みなさんはいかがですか?
健やかで幸せに生きていくためのポリシーのようなもの・・・。
何かお持ちですか???
今日は、陰暦の2月15日に当たります。平安時代末期の歌人西行の命日です。たしか・・・。
『願わくは花の下にて春死なん その如月の暁のころ』
こんな気持ち、私も最近はよぉくわかるようになりました。
とくに散り際の桜吹雪なんて泣けてきちゃいますね・・・。しみじみ(笑)。いや、笑えないか・・・。
さて、最近はちょっと事情があって『生と死』についていろいろと調べています。で、4月以降の活動テーマを見つけました。寺社会の復活です・・・。
がんに代表されるように、現代の病気においては、人間の四苦とされる「生老病死」の『病』の部分が長期化する傾向にあります。要は、患者が何年もかけて死に向かっていくという特徴があるわけです。病床であれこれと考える時間があると、「死」というものに対する恐怖や不安から患者さんたちにはさまざまな葛藤が生じ、場合によっては人格にまで支障を及ぼすこともままあります。
となると、この死へ向かう過程での然るべきケアが必要となってくるはずです。残された人生の価値やQOLをいかに高め、いかに穏やかかつ幸せに死へ誘っていくのか。これもターミナルケアの一環であり、医学の務めなのではないかと、はじめは考えました。
でも、
いろいろと調べるうちに、ここはひとつ宗教家の人たちに期待してみたくなってきました。日本の医療はそもそもが寺院で行われていたという史実があります。日本で最初の国立寺院「四天王寺」には、敷地内に病医院、施設、薬局、学校があったことを改めて思い出しました。人間が死と向き合いそれを受容していくことは、かなり精神性の高い作業だと思います。近代西洋医学の産物である医学の世界の人だけでは、どうも心もとなく思えるのです。アメリカの病院では牧師さんが余命少ない患者さんやご家族のためにスピリチュアルケアを提供しているそうです。
日本で言うならば、お坊さんたちが思い浮かんできます。明治以降、日常生活から切り離されてしまった感がある仏教ですが、今日でも日本の葬儀の9割以上は仏式なのです。
死を目前に控えた患者の内面的な事柄については、やはり宗教家の出番だと思います。もしかすると、もっと日常的にお坊さんたちに死生観のようなものを説いてもらったらいいのではないでしょうか。地域の人たちが、元気なうちから『生と死』について考える機会をお坊さんたちに提供してもらうのです。
病医院は患者さんが死んだ瞬間から商売にはなりません。お坊さんは、人が生きていたら商売になりません。どうも、「西洋医学は生きてる間だけ、お坊さんは死んでからだけ」というのは、死の準備期間が長い今日においては駄目だと思います。それでは生と死が断絶してしまうのです。実際には、両者はつながったものであるはずです。ここをお坊さんにつないでほしいのです。
原点回帰ではありませんが、お坊さんたちはもっと外に出ていって、『死の教育』を病院や地域に出前してみてはどうでしょうか。あるいは、医療も含めた総合寺院を作って、地域コミュニティの磁場になるというのはどうでしょうか。
こんなことを考えるようになった私は、来月からお寺の住職さんたちと話してみることにしたのです。
こんにちは。ジャムおじさんです。
みなさんも経験あるかと思いますが、かかりつけの医者から別の病院を紹介されたときに、最初にご自身の病状について説明することに不便な思いをされたことがあるでしょう。
増してや緊急時に救急車まで呼んで、気が動転していればなおさらのことです。
私たちの考えでは、これはもう高齢で、かつ病弱な立場にあるあなたがご自分で説明するよりも、日頃からあなたの身体について熟知しているマイドクターが説明すべきだと確信しています。
あなたは、そんなストレスの溜まることに悩むことなく、すべてをマイドクターに任せていればよいのです。
でも、父はほとんど飲まない。どうして飲まないのかとたずねると、
この、あなたについて熟知しているただひとりの医師こそが、私たちの考える「マイドクター」なのです。
イメージとしては、旅行代理店のJTBといったところでしょうか。
あれのヘルスケア版だと思っていただければいいと思います。
いつもあなたの身近な存在として、身内のように相談に乗ってくれ、必要に応じて適切な専門医を紹介し、円滑な治療や検査を受けていただけるように便宜を図る。
そんなマイドクターあなたにもがいたとしたら…、好都合だと思いませんか?
私たちは、地域生活者のひとりひとりに、このマイドクターを持ってもらうことをひとつのゴールと考えています。
「確かに、診察のときに10分間ほど患者さんの話に耳を傾ければ、大体病気の診断についての方向性は見当がつく。
ところが、そうした悠長なことをしている余裕がないんだよ」。
結論としては、一人の患者さんの話を3分以上聞いてしまうと、決められた時間内に診療は終らない。
さらに、経営的にもまずい・・・ということのようです。
もちろん、中には高齢者医療を真剣に考え、往診も積極的にやってくれるありがたいお医者さんもいます。
しかし、残念ながらこれは、そのお医者さんの個人的な誠意や良心に基づくものでしかありません。
本当に患者さん思いのお医者さんで、自分の自宅や携帯電話の番号を患者さんに教えている方もいらっしゃいます。
恐らく、体調を崩した高齢者が、あの見づらい電話帳を調べながら、初めての診療所や市役所、増してや地域の医師会に電話をすること自体、かなりの重労働だと思います。病気で気弱になっていないとしても、こんな大変な作業はストレスのもとでしょう。
私と比べれば視力だって衰えているだろうし、指先だってうまく動かなくなっている可能性も高い。そんな状態で果たして必要な医療にたどりつけるものでしょうか?
ある時期、この答えを見つけようとあれこれ調べたのですが、結局、自分自身や大切な家族を守るのは自分しかないということ。
私たちは、せめて日頃から、何かがあった時にすぐ往診してくれる医者を見つけて確保しておくことしかできないのです。
高齢者世帯が休日や夜間の緊急時にも安心して暮らせるような地域医療体制を、国や自治体や医師会に任せておいたのでは何年かかるかわかりません。そのことはよぉくわかりました。ここはもう、自分のことは自分で何とかするしかないのです。
それでは、あなたは現在の日本の医療システムに満足してらっしゃいますか?
私のまわりを見渡すと、むしろ不満の方が多いようです。高齢者だけの世帯では、夜間に自分や家族に何かあった場合にどうすればいいのか、という不安を絶えず抱きながら生活していると言っても過言ではありません。
あと、脱線しますが、あのとき企画提案書作成のために読み漁った医療福祉マネジメント系の文献は、後の国家試験対策にも、今日の私の仕事にも実に有用でした。今にして思えば、転職活動と入学試験のタイミングが重なったの一石二鳥。決して冗談ではなく、このふたつがズレていたとしたら、おそらく現在の自分はなかった・・・。人生って、ホントどこでどうなるかわからないものです。
「医療界のトップが医師ならば、福祉界のトップは社会福祉士」と、ある参考書には記載されていました。
そこには、医師が実際には一職人であるのに対して、社会福祉士は、「わが国の縦割り行政の結果もたらされた、利用者にとって使い勝手の悪い保健・医療・福祉を有機的に結びつけて・・・」等というきわめて次元の高い資格であるようなことも書かれていたのです。
その物凄い国家資格を、大学時代に福祉の「ふ」の字も学んでいない私であっても通信教育で2年もあれば取得できると知りました。
仮に医学部に入っても最低でも6年間は拘束されるわけですし、医者という職業がこの先ジリ貧になっていくことも予見されました。
そして、その時点ではまだ介護保険なるものを熟知できていない医者たちに対して、うまくすれば指導する側に立てるかもしれないという願望が芽生えていったのです。
こんな経緯で、当時は一大ブームであった介護保険で一攫千金を夢見た私は、実に不純な動機で社会福祉士の国家試験を受験するための準備に取りかかったのです。
昨日、とある新年会で隣同士になった方から尋ねられました。
私が社会福祉士であり、医療・福祉関連のNPOを運営しているとわかっての質問です。
「ジャッキーさん(私の通称)ってどんな方なのですか?」
なんでも、お友達が葬儀の生前予約を検討中とのこと。
で、私をお友達に紹介するとして、事前にプロフィールを知っておきたい・・・というのが主旨でした。
考えてみれば、NPOの活動を始めてから7年。
このサイトを立ち上げてから3年。
なにかのご縁で立ち寄られた方にとってみても、私の素性を明らかにしておいたほうがベターなのは言うまでもありません。