医療経営者に求められる時代認識

昨年12月、失業中の若者の焼身自殺に端を発したチュニジアの「ジャスミン革命」。市民の反政府運動により、23年以上も続き磐石と見られていたベンアリ政権はあっけなく崩壊。この衝撃はアッと言う間にアラブ諸国に広がった。なかでもエジプトでムバラク政権が転覆した事実は、中東の多くの人々に「われわれの国でもできるかもしれない」という大きな希望を与えた。

    年が変わると、2月22日にはニュージーランドのクライストチャーチでM6.3の大地震が発生。30名近い志高き日本人が犠牲となった。そして、この悲しみが癒える間もない3月11日、東日本大震災は起きたのである。東北地方太平洋沖で起きたM9.0の大地震とその影響による大津波は、沿岸部の多くの町から尊い生命と暮らしを一瞬にして葬り去った。さらに、福島第一原子力発電所の事故による放射能災害というおまけまでつき、まさに日本中が解決への出口を求めてもがき苦しんでいる状況にある。

    これら一連の政変や自然災害の特徴は、フェースブックやツイッターといったソーシャルメディアが大きな影響を及ぼした点だ。政権がいかに言論を統制しようとしても、草の根的なネットの情報網でその壁を突破し得ることが示された。また、携帯電話が機能せず家族らの安否確認がままならなかったり、被災地の実情がなかなか把握できなかったりという非常時にも、ソーシャルメディアが威力を発揮することが明らかになった。これからの時代、民衆がソーシャルメディアを通して積極的に意思表示する流れには逆らえまい。国家には大衆の意を酌んだ政治への脱皮が求められるのだが、長期にわたり迷宮を彷徨うわが国の政治の体たらくを見るにつけ、二大政党の首脳たちの思考と言動には首を傾げざるを得ない。

 もうひとつ大きいのが、極めて近いところで発生した大惨事が国民一人ひとりにもたらした意識変化である。今回の大震災を契機に、私たちの価値観や人生観は確実に変わった。自分にとって本当に大切なものは何なのか。悲しみのどん底にいる人たちのために、自分に何ができるのか。自分はなぜこの時代に生まれ、生かされているのか。そして思い知らされた、人類では到底抗うことのできない大自然への畏怖。そんなことを改めて自問自答した読者も多いのではなかろうか。筆者の周囲でも同様である。

 従来の資本主義のベースにあった価値観が変われば、市場が変わることは十分に予測できる。となれば、経営者の事業観やビジネスモデルも変わらざるを得ないわけで、今年2011年はまさしくパラダイムシフト元年として位置づけられる。幸か不幸か、東日本大震災によって日本という国は全世界の注目の的となった。政治的経済的レベルの話だけではなく、日本人の生き様自体が世界中の人たちの一大関心事となったのだ。大仰に言えば、復興に向けたこれからの日本人の歩みが全世界に大いなる影響を与えていく、そんな歴史的大転換の真っ只中に私たちはいま生かされているということを再認識すべきであろう。
さて、連日報道される被災地の様子には、地元医療機関と協力しながら被災者の健康面をサポートする医療者たちの姿が映し出される。都道府県の災害派遣医療チーム(DMAT)、日本医師会災害医療チーム(JMAT)の他、国境なき医師団(MSF)など医療関連の非政府組織(NGO)から災害医療の経験を持つ医師や看護師が派遣され、地元医療機関と協力して当面の対応に努めている。筆者の知り合いの医師や看護師たちも、それぞれの地元での活動をやりくりしながら、被災地に出向いて自分たちにできることに全力を注いでいる。とくに生活習慣病疾患を多く抱える高齢者にとっては、在宅医療をはじめプライマリーケアを専門とする医療者たちの存在は実に心強いものがある。不運にも窮地に陥った人たちを、少しでも善くしようという気持ちに支えられた彼らの医療活動には頭が下がる思いである。

 一方で、2001年の第一次小泉内閣以降、構造改革の矛先が向けられている医療だが、2015年における地域医療の青写真はすでに概ね固まっていると考えていいだろう。自民党政権時代の経済財政諮問会議、社会保障国民会議等でアウトプットされた方向性は、民主党政権下においても踏襲されたし、今後も菅内閣の顛末如何にかかわらず、わが国の医療財政の窮状からは大きな軌道修正は考えられまい。

 そのなかで特に重要なのは、これまでの審議機関が一貫して言及してきた「現行医療のムダ排除と医療品質の向上」という点である。これ即ち、ムダな医療に投下されている医療資源を本当に必要な医療分野に最適再配置しようということなのだが、問題は『ムダな医療』とは何なのかが曖昧なまま今日まで来てしまったことである。が、実際には曖昧どころか具体的に抽出済みと考えたほうがよさそうだ。どうやら医療提供者サイドへのインパクトを考慮してリリースのタイミングを計っている感がある。しかし、2012年のダブルインパクト(診療報酬と介護報酬の同時マイナス改定)を含め、俎上に挙がった『ムダな医療』を淘汰するシナリオが着実に展開されることは間違いないだろう。

 誤解を恐れずに大胆予測をさせてもらえば、「大規模急性期病院の局所集中化」・「慢性期病医院の絞込み」・「在宅死インフラの整備」の3本柱となる。10年近い論議の過程で、急性期医療における箱物と専門医の分散、慢性期医療における必ずしも有効でない検査・投薬・手術、救急搬送コストの問題が絶えず指摘されてきた。が、医療における秩序の維持は医療提供者側に委ねられ、結果的に今日の医療偏在と国民医療費の膨張を招くこととなった。

 2002年以降、診療報酬の微少なマイナス改定が繰り返されたり、介護保険という高齢者医療向けの別の財布が作られたり、悪評高き特定健診・特定保健指導が導入されたり、さまざまな医療費抑制措置が講ぜられたものの、国民医療費は毎年1兆円ずつ跳ね上がり奏功しなかった経緯がある。そこで団塊世代(昭和22年~昭和24年に生まれた世代)がすべて65歳以上となる2015年に照準を合わせ、形骸化した『健康日本21』に代わる国民啓発運動が準備されているとの噂も聞こえてくる。そこでは、がんをはじめとする生活習慣病を患った場合の、医療との然るべき接し方を国民に諭していくようだ。

 つまり、霞ヶ関や永田町では、35兆円超にも及ぶ国民医療費のうちかなりの金額が、さして意味のない医療に費やされているとの認識を持っている。しかし、これを改めるためには、僅かな診療点数のダウンだけでは状況は変わらない。そこで医療利用者側に情報提供することで、「医師に盲従するのではなく、自分の健康を守るために医療との距離感を勉強せよ」という教育を行っていくのである。具体的な標的となるのが、検査漬け、薬漬け、無駄な手術、延命治療等であろうか。現在の後期高齢者と違い、自分の価値観に拘り、納得いかない限り購買しないという団塊世代の行動気質を見込んだ、いわば病医院からの患者剥がし作戦と言っていいだろう。

 これが現実のものとなれば、従来と同じ医療を提供していたのでは患者単価が落ちるばかりか、患者数そのものが減ってしまうことは明らかだ。規模的あるいは機能的に中途半端な病医院は収益が落ち、職員の雇用を維持するためには何かしらの手を打たねばならなくなる。そこで、夜間救急、在宅医療、母子医療等、当該地域で本当に不足している分野にシフトせざるを得ない状況を作っていく…。これが2015年に向けたわが国医療の再編シナリオである。

 この仮説の下で、地域医療に携わる経営者が真っ先に取り組まなければならないのは、地域の人たちが健やかで幸せに暮らすために、みなさんの病医院が何をすべきかを今一度再定義することである。現在提供している医療サービスは、真に患者のことを考えてのものだろうか。本当に心の底からそう言えるだろうか。血糖値や血圧の検査結果だけを見て、(機械的に)一律な処方を行ってはいないだろうか。目の前の患者に対して、自分自身や家族が同じ症状を発した場合と同じように指導しているだろうか。

 従来通りのやり方だと、全患者数の殆どを高齢者に依存している病医院は、この5年間でかなりの経営的ダメージを受ける可能性が高い。情報武装した団塊世代の高齢者とは、従来の医者と患者の関係は成立しづらい筈だ。上下関係ではなく、ともに症状改善や健康維持を目指すパートナーのような関係が求められる。そこで重要となってくるのが、患者にとって価値ある情報を敏感に察知し、それをわかりやすく、かつ感じよく伝えること。医師をはじめとする全職員がこれを理解し、それぞれの持ち場で実践していく必要がある。

 期せずして、霞ヶ関の医療再編シナリオは、全世界規模での秩序の再構築や自然の摂理に対する畏怖の息吹とシンクロすることになった。そこから汲み取れるあるべき地域医療とは、これまでのような化学的な対症療法ではなく、患者に本来備わっている筈の自然治癒力や免疫力を目覚めさせる、自然に逆らわない医療である。従来型の総花的な医療を提供する病医院は中学校区にひとつかふたつあれば十分という認識が窺える。とくに競合環境の厳しい都市部では、その地域になくてはならない存在として認知されない限り、何かしらの業態転換をせざるを得ない時代がもうそこまで迫っていると考えたほうがいい。


 これからの病医院経営の本質は地域との関係を強化・深化させていくことに他ならない。そのために真っ先に取り組むべきことは、患者や地域とのコミュニケーションのあり方を組織全体で共有・実践し、それを具体的な業績に結びつけていくことである。

緊急特別寄稿『ゼロリセット時代の病医院経営』


政変、天災、医療再編・・・。さぁどうなる?病医院経営!

相次ぐ天災や政変。従来の秩序は崩壊し、人々の価値観は変わった…。日本社会のあり方そのものがゼロリセットされることで、企業の事業観やビジネスモデルも大きく変わる。医療の世界も同様だ。いま病医院トップには、わが国の医療再編シナリオを注視するのに加え、この一大転換を大局的に捉えながら地域貢献と経営維持を両立させていくことが求められる。激変の時代を生き抜く一助としていただきたく、思いを伝えたい。


すべてがゼロリセットされる時代に問われる経営観
昨年12月以降、チュニジアの「ジャスミン革命」に端を発した市民による反政府運動は、アッと言う間にアラブ諸国に広がった。なかでもエジプトでムバラク政権が転覆した事実は、中東の多くの人々に「我々にもできるかもしれない」という大きな希望を与えた。また、オーストラリア北東部の大洪水、ニュージーランド・クライストチャーチでの大地震。その悲しみが癒える間もない3月11日、東日本大震災は起きたのである。M9.0の大地震とその影響による大津波は、沿岸部の多くの町から尊い生命と暮らしを一瞬にして葬り去った。さらに、福島第一原子力発電所の事故による放射能災害というおまけまでつき、まさに日本中が解決への出口を求めてもがき苦しんでいる状況にある。
人類には到底抗うことのできない大自然への畏怖、長きにわたり積み重ねてきたものが突然消え去ってしまう現実は、国民一人ひとりに劇的な意識変化をもたらした。今回の大震災を契機に、私たちの価値観や人生観は確実に変わった。自分にとって本当に大切なものは何なのか。悲しみのどん底にいる人たちのために、自分に何ができるのか。自分はなぜこの時代に生まれ、生かされているのか。そんなことを改めて自問自答した読者も多いのではなかろうか。従来の資本主義社会のベースにあった価値観が変われば市場も変わることは十分に予測され、医療界とて他人事ではない。地域の安心と安全のために自院は何をすべきなのか。病医院経営者には、改めてその経営観や事業観を真摯に見直すことが求められる。地域との共生や社会貢献が第一義となり、患者のための真の健康や幸せに貢献しない医療、透明性に欠けた提供者論理の医療は淘汰される時代がすぐそこまで来ていると認識したほうがいい。

医療再編シナリオの方向性
自民党政権時代の経済財政諮問会議、社会保障国民会議等でアウトプットされてきた地域医療再編シナリオでは、現行医療のムダな部分に投下されているリソースを本当に必要な医療分野に最適再配置する青写真が描かれている。これまで具体的には表現されずにきた「ムダな医療」の中身だが、どうやら医療提供者サイドへのインパクトを考慮してリリースのタイミングを測っている感がある。しかし、12年の診療報酬&介護報酬の同時改定以降、俎上に挙がった「ムダな医療」を淘汰するシナリオが着実に展開されることは間違いない。霞ヶ関や永田町では、かねてより35兆円超にも及ぶ国民医療費のうちかなりの金額が、さして意味のない医療に費やされているとの認識を持っていた。急性期医療における箱物と専門医の分散、慢性期医療における必ずしも有効でない検査・投薬・手術、救急搬送コストの問題等がそれである。02年以降、診療報酬の微少なマイナス改定が繰り返されたり、介護保険という高齢者医療向けの別の財布が作られたり、悪評高き特定健診・特定保健指導が導入されたり、さまざまな医療費抑制措置が講ぜられたものの、国民医療費は毎年1兆円ずつ増え続け奏功しなかった経緯がある。
2年毎の診療点数の微減だけでは状況は変わらない。そこで団塊世代(昭和22年~24年に生まれた世代)がすべて65歳以上となる2015年に照準を合わせ、形骸化した『健康日本21』に代わる国民啓発運動が準備されているとの噂も聞こえてくる。そこでは、がんをはじめとする生活習慣病を患った場合の、医療との然るべき接し方を国民に諭していくようだ。医療利用者側に情報提供することで、「医師に盲従するのではなく、自分の健康を守るために医療との距離感を勉強せよ」という教育を行っていくことが予想される。現在の後期高齢者と違い、自分の価値観に拘り、納得いかない限り購買しないという団塊世代の行動気質を見込んだ、いわば病医院からの患者剥がし作戦と言っていいだろう。

病医院経営の浮沈を握る地域との関係性
これが現実のものとなれば、従来と同じ価値観で医療を提供していたのでは患者単価ばかりか患者数まで減ってしまうことは明らかだ。特に全患者数の多くを高齢者が占める病医院、規模的あるいは機能的に中途半端な病医院では、この5年間でかなりの経営的ダメージを受ける可能性が高い。収益が落ちれば、職員の雇用を維持するためには何かしらの手を打たねばならなくなる。そこで、夜間救急、在宅医療、母子医療等、当該地域で本当に不足している分野にシフトせざるを得ない状況を作っていく…。これが15年に向けたわが国医療の再編シナリオである。霞ヶ関が描くあるべき地域医療の大きな方向性は、「大規模急性期病院の局所集中化」・「慢性期病医院の絞込み」・「在宅死インフラの整備」の3本柱となろうか。

この仮説の下で、病医院経営者が真っ先に取り組まなければならないのは、地域の人たちが健やかで幸せに暮らせるよう、自院が果たすべき使命を今一度再定義し、全組織を挙げて、それを然るべき相手に情報発信していくことである。情報武装した団塊世代が高齢者となれば、従来の医者と患者の関係は成立しづらい筈だ。そこでは上下関係ではなく、ともに症状改善や健康維持を目指すパートナーのような関係が求められよう。平成23年3月11日、時代はゼロリセットされた。病医院経営の原点は、患者や地域との関係を強化・深化させていくことである。その中から貴院ならではの価値を創り、それを具体的な業績に結びつけていくのが経営者の知恵というものだ。これからは、従来のような接遇改善やクレーム対応の域を超えた、経営意図を実現するためのコミュニケーションが病医院経営の切り札になると確信する。

ホスピタリティマインドよ、何処へ?


こんにちは、アンクル・ジャムです。
病医院のホスピタリティについて書いてきましたが、今回が最終回です。

さて、この、もっとも骨のかかるテーマを、日常の診療活動をこなしながらいかに実践していけばいいのか。

いま、医者と患者の信頼関係が危ぶまれています。 例えば、新患がリピート受診をする・しないは、診察前の段階で8割は決まっているのです。つまり、いくら腕のいい、人格ある医師が診察室の向こう側に控えていても、患者さんがそこに辿り着くまでに接触する他の職員がマイナス印象を与えてしまえば、その患者さんは二度とやってこない確率が非常に高いということです。

 
しかしながら、ひとの教育というのは経営者にとって出口のない迷路のようなもの。効果的な方法があれば、喉から手が出るほど欲しいといったところではないでしょうか。
この難題に対する解決策として、私は、リッツカールトンホテルの職員が受けている接遇改善研修を一部、医療機関向けにアレンジしてお届けしてきました。同ホテルの「顧客を心地よくさせる接遇」は、凄いのひと言です。

ご関心のある病医院経営者にも、これを是非とも手にとってほしいものです。おそらく私の知っている限りでは、もっとも短期集中で職員の意識に変化の兆しが表われる方法だと思います。騙されたと思って試してみて下さい。そして、トップが忙しくて、どうにも自らイニシアティブが取れないということであれば、どうぞお気軽にご一報下さい。オンサイトでご指導させていただいております。

『リッツ・カールトン流 接遇ブラッシュアップ研修のしおり』 欲しい方は、下記までどうぞ。

 npo24no1103@ttv.ne.jp まで、『リッツの資料希望』と書いて送信下さい・・・。


多くの経営者の方々が関心を持ちながらも、空メールを送るというわずかな労力を惜しむなか、ささやかではあるけれど極めて重要な初めの一歩を踏み出された貴殿に敬意を表します。そして、小生と貴院のあいだに、近い将来なにかしらの接点が生まれますことを心より希望してペンを置きたいと思います。

今こそ変わるとき

こんにちは、アンクル・ジャムです。
病医院のホスピタリティについてお話してきました。

病院では、これまで権威主義だけが精彩を放ってきた。医師というのは、周囲の人たちから尊敬を受け、非常に高い社会的地位を得てきた。世間と比べれば、相対的に報酬も高い。しかし、彼らの目から見れば、患者というのは痛みや苦しみから救われることを求める哀れな人間にしか見えない。看護師をはじめとする他の職員たちも、医師と同様の感覚で患者に接しているのではないか。

患者に対する気配り、思いやり、温かい対応について、もう一度ホスピタリティの原点に立ち返って考えて欲しい。医師と患者の心の通ったコミュニケーション、看護師の患者に対する博愛精神を持った対応、受付の懇切丁寧な立ち振る舞い、ヒューマンタッチな病院施設の拡充・・・。これらに努めれば、患者からも感謝され、職員も勇気づけられ、病院再生の格好の機会となるだろうに。

最近では、これらの条件を満たしているところも少なくない。が、これだけではホスピタリティ・ビジネスとしては不十分だ。患者の症状というのは十人十色で一人ひとり異なるし、体質も異なる。患者個々に異なる対応が求められる。つまり、One-to-oneの関係において患者と接しなければならないのだ。これこそがホスピタリティの本質であり、病院にとっては、個々の患者を真剣に丁重に治療することがもっとも基本的なミッションに他ならない。

残念ながら、殆どの病院では、患者自身のことよりも施設内の患者処理システムの方を重視している。システムによる効率化に熱心な余り、人間的な接触をできるだけ避けようとしているようにすら感じてしまうことがある。その方がコスト削減には効果的だと言い切る経営者さえいる。どうも、ミスの減少とコスト削減の一挙両得だと錯覚しているようだが、とんでもない誤解である。そんな考え方が医療ミスの原因になっていると言っても過言ではない。

システムやテクノロジーを動かすのは人間である。病院の職員である。思いやりのある病院というのは、単に職員をロボット化することではなかろう。患者に満足のいくサービスを提供するには、医師を含めた職員全体の意識改革をすることが必要だ。患者がその医療機関をいかに評価するかは、患者が職員と接触する「真実の瞬間」によって決まるのだ。そのためには、患者に対するホスピタリティ・マインドを全職員に徹底していかねばならない。

病院のルーツはホスピタリティ


こんにちは、アンクル・ジャムです。
ホスピタリティの話を続けます。

話を医療機関に戻そう。“止まらない医療ミス”は、衝撃というよりも恐怖である。病院のことを英語でホスピタル(hospital)とかホスピス(hospice)という。本来、ホスピタルやホスピスはホスピタリティとルーツは同じである。治療に訪れる患者を優しく治癒することが目的であり、病院というところは、患者や外来者に対して親切に厚遇すべき場所の筈である。ところが、昨今の大学病院や公的病院で発生する注射ミスや手術ミスなどは、信じられないニュースとしか言いようがない。


そもそも大病院に患者が集中する理由は、一般の開業医よりも、医師の知識や経験、カバーし得る領域、検査機器等の設備など、あらゆる点で自分の病気を正しく診てもらえる確率が高い、そんな患者の信頼の表われである。それなのに、そうした大病院に限って医療ミスが続発しているのだ。「人間のやることだから」では済まされない人為的ミスであり、まさに人災という以外に言葉が見つからない。こうした事件が発覚するたびに、当該病院の医師たちは記者会見をして陳謝している。しかし、病院で働く医師、看護師、その他の職員たちは、果たして自分たちがホスピタリティ・ビジネスに従事しているということをどの程度自覚しているだろうか。

病院では、患者は問診票を書かされ、さまざまな質問をぶつけられる。医師や看護師の前で裸にされたり、寝かされたり、彼らの思うように奴隷のごとく服従を迫られる。そして、十分な説明もないままに注射され痛い目に遭わされる。入院患者の場合はもっとひどい。見舞い客の訪問時間も制限され、完全看護ならぬ囚人扱いである。そこにはプライバシーもなく、食欲のわかない最低限度の食事しかあてがわれない。まるでトイレと最低限の食物を与えられた拘置所の囚人と何ら変わらないではないか。医師や看護師たちは、ホスピタリティという言葉を知っているのだろうか。

偉大なる97歳の現役医師

こんにちは。アンクル・ジャムです。
先だって、聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明氏の講演を聴きました。97歳の現役医師として、いまなお八面六臂のご活躍です。今回、もっとも印象に残ったくだりをそのままご紹介します。さすが、良いことを仰るものだと改めて感心してしまいました。
 
『心臓の病気というのは問診だけで6割わかる。聴診器を使えば7割はわかる。なぜかと言うと、最新鋭の検査機器で病気を診断するのではなく、対面する患者さんの顔を診ているからです。聴診器と言えば、かつては医者の代名詞のようなものだったのですが、悲しいことに、いまでは聴診器で病気を発見する技術はすっかり失われてしまいました。いまの医者は聴診器が使えないのです。ですから検査データを偏重してしまいますし、データがないと病気の見当がつかないから無駄な検査を増やしてしまうのです』。
 
すばらしい!以前、日野原先生に質問する機会がありました。私の母校の新春講演会にお越しいただいたときのことです。あんまりズバズバと今日の医療事情について歯に絹着せず仰るので、『現場の医師たちから反発はありませんか?』と聞いたときの答えは次のとおりでした。
 
『ありますよ、もちろん。息子たちからも、あまり余計なことは言わないでほしい。現場がやりづらくなって困るから・・・と言われました。でもね、私はよど号のハイジャックに遭って一度死んだと思っているのです。あの一件以降は、正直に真摯に患者さんたちと向き合っていこうと決めた、いや、改心したのです。だから、良いものは良いし、ダメなものはダメ。できることはできるし、できないことはできない。そうはっきりと伝えるのが医師の良心ではないかと考えるようになりましたね。患者さんに変に期待を持たせたり、わからないことを知ったふうな素振りをしながら治療に当たったとしたら、それは医師として倫理的にまずいですよ。あっ、いまのお答えはぜぇんぶオフレコですからね・・・』
 

ここまで書いてきてオフレコだったことを思い出しました。従って、この部分は私のあいまいな記憶によるもので、このまんま日野原氏が話されたかどうかは何とも言えません。こんな感じだった・・・ような気がします、はい。ではまた。

97歳の現役医師のすばらしい話

こんにちは。アンクル・ジャムです。
先だって、聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明氏の講演を聴きました。97歳の現役医師として、いまなお八面六臂のご活躍です。今回もっとも印象に残ったくだりをそのままご紹介します。
さすが、良いことを仰るものだと改めて感心してしまいました。
 
『心臓の病気というのは問診だけで6割わかる。聴診器を使えば7割はわかる。なぜかと言うと、最新鋭の検査機器で病気を診断するのではなく、対面する患者さんの顔を診ているからです。聴診器と言えば、かつては医者の代名詞のようなものだったのですが、悲しいことに、いまでは聴診器で病気を発見する技術はすっかり失われてしまいました。いまの医者は聴診器が使えないのです。ですから検査データを偏重してしまいますし、データがないと病気の見当がつかないから無駄な検査を増やしてしまうのです』。
 
すばらしい!
以前、日野原先生に質問する機会がありました。私の母校の新春講演会にお越しいただいたときのことです。あんまりズバズバと今日の医療事情について歯に絹着せず仰るので、『現場の医師たちから反発はありませんか?』と聞いたときの答えは次のとおりでした。
 
『ありますよ、もちろん。息子たちからも、あまり余計なことは言わないでほしい。現場がやりづらくなって困るから・・・と言われました。でもね、私はよど号のハイジャックに遭って一度死んだと思っているのです。あの一件以降は、正直に真摯に患者さんたちと向き合っていこうと決めた、いや、改心したのです。だから、良いものは良いし、ダメなものはダメ。できることはできるし、できないことはできない。そうはっきりと伝えるのが医師の良心ではないかと考えるようになりましたね。患者さんに変に期待を持たせたり、わからないことを知ったふうな素振りをしながら治療に当たったとしたら、それは医師として倫理的にまずいですよ。あっ、いまのお答えはぜぇんぶオフレコですからね・・・』
 

ここまで書いてきてオフレコだったことを思い出しました。従って、この部分は私のあいまいな記憶によるもので、このまんま日野原氏が話されたかどうかは何とも言えません。こんな感じだった・・・ような気がします、はい。ではまた。

カルテ入手のすすめ

こんにちは。アンクル・ジャムです。
さて前回は、医師が患者に対して果たすべき説明義務のお話をしました。早速お問い合わせがあったのでちょっとだけ補足をしておくと、説明義務とは、治療前だけに課せられているのではないということが重要です。治療後に注意すべき点についても、医師は患者に十分な説明をしなければなりません。これを怠って患者側に被害が発生した場合、医師は説明義務違反として責任を負わなければなりません。施した治療の内容・経過・食事といった、その後の生活についての注意事項を説明しなければならないのです。
 
もうひとつ大事なのが、医師の説明は患者が自己決定権を行使するために行われるものなので、患者が理解できるようにわかりやすく説明しなければならないということです。ただ説明したんだからいいだろ・・・ってなわけにはいかないのです。患者側の受け止め方をしっかりと意識して説明することが求められているわけですね。
 
さて今回は、カルテのことです。(正式には、「診療録」という)みなさんからしょっちゅうお問い合わせがあるテーマですね。実は、相談者からの依頼でカルテ等を入手してみると、カルテへの記載内容はかなり稚拙です。文字がよめないものから、ほとんど白紙状態のものまで・・・。わが国の医師には、どうやら危機管理意識というものがないようです。逆に言うと、彼らは従順で人のいい患者さんたちのお陰で命拾いをしているように、私なんぞは感じてしまいますねぇ。

実は、医師は患者に対して、どのような治療を施したのかについて客観的な記録を残しておかねばならないと定められています。この義務を怠ると、50万円以下の罰金を科せられることになります。具体的に記載すべき事項は、以下のとおりです。

 
①診療を受けた者の住所・氏名・年齢・性別 ②病名・主要症状 ③治療方法(処方と処置)
④診療年月日 ⑤既往症・原因・経過 ⑥保険者番号 ⑦被保険者証の記号・番号・有効期限 ⑧保険者の名称・所在地 ⑨診療点数
 
ただし、これらを機械的に書けばいいというものではありません。カルテとは、客観的な事柄を記録として残しておくための文書です。よって、誰が見ても読み取れるよう、記載者にしかわからないような略語や略字は使用できないことになっています。また、責任所在を明らかにするため、記載者と記載年月日&時刻も記載しなければなりません。もしもカルテの写しを入手する機会があったら、是非ともこれらの項目が判読しやすく記載されているかどうかをチェクしてみてください。
 

さいごに、もうひとつ知っておいて欲しいことがあります。それは、患者から請求された場合、医師には、正当な理由がない限り、診断書を作成して交付する義務があります。ここでいう正当な理由とは、患者以外から請求されて患者のプライバシーが侵害される恐れがある場合、未告知のがん患者の場合、保険金詐欺等に悪用されることを医師が知った場合、などをいいます。

患者に対する医者の義務とは

こんにちは。アンクル・ジャムです。

ここ数週間、またまたみなさんからの相談案件が増えてきました。ほとんどが医師とのかかわり方の問題です。こうした実例を聞くにつけ、世間的には医師の過酷な勤務状況について擁護する論調が増えてきた昨今ではありますが、まだまだ不当な不利益を被っている患者さんが多いことを実感します。相談者に共通するのは、いずれも極めて「良い患者さん」であるということです。どうもわが国の医療現場においては、「良い患者さん」ほど医療提供者にいいようにされてしまう危険性を孕んでいるようです。そこで今回からは、どうしてもみなさんに(患者の立場として)知っておいて欲しいことを書いてみます。
 
それは・・・、医師という職務には遵守すべきさまざまな義務があるということ。逆に言えば、これを果たしていない医師に対して、患者側はもっともっと権利を主張して然るべきだということです。しかしながら、ほとんどの患者さんは医師に対して従順です。複雑な胸の内とは裏腹に、ついつい医師の言葉に頷いてしまう。そんな呪縛から逃れるためにも、是非とも知っておいて欲しいのが、患者に対して医師が果たさねばならない義務…です。
 
さて、患者と医師の間には、診療契約という契約関係が成り立っています。とくに契約書は交わしていませんが、そんなこととは無関係に『診療契約』という概念が存在するのです。その契約内容ですが、ズバリ、医師が医療を施すことによって患者の健康を回復することです。ただし、医療行為には少なからず身体や生命の危険が生じる可能性も否定できません。また、治療法が複数ある場合も多々あります。
 
そこで患者側には、いかなる治療を受けるべきか、自分自身で決定する権利が認められているわけです。これを自己決定権といいます。しかしながら、通常、患者は医療についての専門知識を持っていません。で、診療に当たる医師には、専門家として、患者の診療状況を説明する義務が課せられているのです。これを説明義務といいます。
 
例えば手術となれば、患者の身体と生命に強い影響を及ぼすので、患者が自己決定権を行使するのに足るだけの十分な説明義務を果たさなければなりません。具体的には、最高裁判所が判示している次の5項目が説明されなければいけません。
 
①手術前の診断について ②手術の内容について ③手術の危険性について ④他の治療法について ⑤予後(手術後の経過)について
 

なお、この5項目は手術という特別な場合に限ったものではなく、すべての治療行為に妥当するものです。みなさんがいま通っている病医院の医師はどうでしょうか?仮にみなさんがいまの治療について納得がいかぬままにお金と時間を費やしているとしたら、主治医にこの5項目が該当するかどうかチェックしてみてはいかがでしょうか?クリアできていないとしたら、その医師は明らかに説明義務を果たしていないことになります。みなさんの出方次第では、その医師や病医院の立場は非常にまずいものとなる可能性があります。この点をご理解いただき、みなさんにはただ「良い患者さん」になるのではなく、彼らの言動をチェックするような感覚で診察室に入っていただきたいと思います。

日本の患者は我慢強すぎる・・・

こんにちは、ジャムおじさんです。先日、ニューヨークにいる親友が久々に帰国したので、一杯やってきました。で、あちらの病院の療養環境についていろいろとナマで教えてもらいました。わが国の病院の体制は簡単には改善されそうにありません。結論としては、患者自身が認識を改め、厳しい批判や選択の目を光らせることによって、改善をうながしていくしかなさそうです。
 
病院はあくまでも患者のためにあるということを、まずは患者さんたちにしっかり認識していただきたいのです。医者やスタッフに遠慮することはありません。自分の意思や希望や疑問を、病院側にきちんと伝えていく必要性を感じています。逆にそうでなければ、主治医や看護婦とよい関係を保つことはできません。
 
いつも気になることですが、日本の病院では、患者に対するスタッフたちの態度が敬意を欠いています。患者が高齢の場合、看護婦や他のスタッフがまるで幼児でも扱うような態度で接することもあります。立派な大人が幼児語で呼びかけられれば、不快に感じるのは当然です。そんなときは、対等な大人として扱うようにはっきり要求すべきです。
 
担当医にもっと病室まで来てもらいたいなら、そう申し出てください。主治医なら毎日、少なくとも一度はベッドを訪れるのが当然だし、病状によってはもっと頻繁に様子を見るべきです。よい医師なら、かならずそうします。
 
もし、あなたと担当の看護婦がうまくいかないときは、本人に直接、自分の気持ちを伝えるのがいちばんよい方法です。一度は自分の口から、不満や要求を具体的な言葉にして伝えなければなりません。それで解決できないときは、主任や婦長に相談します。

 「痛み」だって、かならずしも我慢する必要はありません。痛みについては、患者と医療スタッフの考え方が往々にして異なり、医者のなかには、鎮痛剤の処方を嫌う人もいます。看護婦が忙しくて、なかなか相手にしてもらえないこともあります。

 「手術の後は誰だって痛むんですよ」
 「しばらくの間だから我慢してくださいね」
 
しかし、痛みの感じ方は人それぞれに違います。同じ病気で、同じ手術を受けたとしても、ある人は比較的、楽な術後を過ごし、別のある人は耐えがたい苦痛を感じます。もし、あなたが痛みをあまり我慢できないたちだと思うなら、「病気なんだからしょうがない」などとあきらめず、スタッフに訴えるべきです。医者や看護婦に迷惑がかかるなどと心配するのは筋違いです。痛みを軽減するのも彼らの仕事です。痛みがとれればその分、回復も早いのですから、我慢するのは賢いことではありません。


変に「(病院にとって)良い患者」になってしまうと、それこそ病院のいいようにされてしまう・・・。悲しいことですが、これがわが国の実情だと認識しておいたほうがいいと思うのです。

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