刮目せよ

 年寄りが、「トロい、ウザい、クサい」なんて・・・。
 
 まぁ、随分ひどいことを言うものよねぇ。

 そんなお叱りを受けそうだが、実はご本人たちも自覚があるらしい。

 
 ここに、私たちが昨年(2010年)の初詣客に行ったアンケート結果がある。
質問は、『初詣でひとつだけ願かけするとしたら、それは何ですか?』。
 
 ①認知症になりたくない        30票
 ②寝たきりになりたくない       28票
 ③要介護状態になりたくない     26票
 ④老醜化したくない           21票
 ⑤がんになりたくない          17票
 ⑥一〇〇歳まで生きたい        7票
 ⑦人並みに暮らしたい          6票
 ⑧孫の顔が見たい            6票
 ⑨子どもや孫の結婚式を見届けたい 5票
 ⑩人生を楽しみたい           5票
 
 アンケートの対象は、東京都府中市にある大國魂神社に参拝に来られた65歳以上の男女150人である。
 
 この結果から明らかなことは、一般的なお年寄りの願いとは、不安や苦痛から逃れることに対する欲求(①~⑤)の方が、楽しみや喜びを求めることに対する欲求(⑥~⑩)よりも圧倒的に強いということである。
 
 そして、彼らの言う不安や苦痛とは、「認知症・寝たきり・要介護・老醜化・がん」であり、こうした悪夢のような状況に、すでに自分たちが少しずつ歩を進めているという自覚がある。このアンケート結果は、そう見て取ることができると思う。

 しかし、元来、人間とはなまけものである。だから、元旦などの特別な日には改まってこうした願懸けをするのだが、「認知症・寝たきり・要介護・老醜化・がん」にならないための工夫や努力を日々の生活の中で行っているかというと、それはもう聞くまでもなくNOなのである。
 
 そんな虫のいいお年寄りは、かなりの確率で悪夢が現実のものとなる。「認知症・寝たきり・要介護・老醜化・がん」にならないためにはどうすべきか。このことを真剣に考えることから逃げてきた罰が当たるわけだ。

 
 ちなみに、④の「老醜化」であるが、具体的な内容を聞いてみた。みなさん、思い当たるところがあるだろうか。
  
 ●目尻のシワやシミ ●身体のシミ ●抜け毛 ●物忘れ
 ●話がくどくなる ●トイレが近くなる
 ●加齢臭 ●歯が抜ける
 ●姿勢が悪くなる ●動作が鈍くなる ●口臭がキツくなる ●体型が崩れる
 ●手足がしびれる ●耳鳴りがする ●痰が絡む ●五感が鈍感になる

老人と罪

  「トロい、ウザい、クサい」。

 これを三大老罪というらしい。

 
 真実とはいつも残酷で容赦のないものだ。周囲は年寄りをこう見ている。
周囲から忌み嫌われるという意味で、老いるとは悪である。世のため人のためにならないものに価値はない。その年寄り自身の人格がどうあれ、だ。むしろ迷惑をかけているとすれば有害ですらある。悲しいけれど、これが現実だ。みんな思っていることだ。下手をすれば、実の子どもや孫ですら、である。
 
 思い当たることがあるのではないだろうか。でも、心優しいものたち、賢いものたちは決して口には出さない。やがて自分たちも、トロい、ウザい、クサい存在になることを知っているからだ。

 
 人間を長くやっていれば、そりゃあ誰だってそうなる。反応は鈍くなるし、動作ものろくなる。人ごみにいるだけで邪魔になる。話は長くなるし、ループする。喋ってるうちに、何を言いたいのかわからなくなる。本人でさえも。
 
 身体じゅうが錆びついてくるから、血液も唾液も汚いし、悪臭を放つ。加齢臭を撒き散らしながら電車に乗ってくる年寄りにはかなわない。トロく、ウザく、クサいこと自体が悪なのではない。誰しもいつかはそうなるのだから。
 
 問題は自覚がないことだ。周囲に迷惑をかけていることに気づかないことだ。
 
 「いまの平和で豊かな日本を作ったのは自分たちだ!」
 
 そんなことを言って、なかにはわがもの顔で権利を主張する年寄りがいる。とんでもない話だ。そんなたわごとは100年遅い。昔は昔、今は今だ。ほとんどの年寄りに、もはや価値はない。と言うより有害だ。若い世代に、国に、世間に迷惑をかけながら生きていることを自覚すべきだ。
 
 いったい何歳までそうやって恥知らずな人生を送る気か。年寄りは、もっと謙虚におとなしく残りの人生を生きなければならない。せめてお金でも持っていればまだ価値はある。人脈もまた然り。それを一日も早く、子どもや孫たちにあげるべきだ。年寄りが一日生き延びるにごとに、彼らの負担が増すことは疑いがないのだから
 
 でも、分け与えるお金すら持っていない年寄りは救いようがない。自らの人畜有害ぶりを認識し、徹底的に謙虚になるしかない。医療や介護もタダ同然だからといって貪るのはやめてくれ。年金もらって真昼間からパチンコなんてしてる場合か。そんなお金があるなら、ちょっとでも子どもや孫たちに差し出しなさい。結局は彼らのお世話になるしかないのだから。親の面倒を見るのは当然だ、などと言うのは盗人猛々しいというもの。

 子どもたちには子どもたちの生活がある。この不況下で、仕事と家庭を抱えながら死ぬ思いでがんばっているのだ。育ててやったんだから今度は面倒を見ろ、というのは筋違いだ。親が子どもを育てるのは当然の義務だ。偉くもなんともない。あんたらが勝手に作ったんだから。

 
 年寄りは他の誰でもない、自分自身で人生の幕引きをするべきだ。が、そうできる年寄りは一割もいないだろう。ほとんどは子どもや孫たちに迷惑をかけながら死んでいく。そして多くの場合、その迷惑は死んでからも続く。葬儀に相続に家財道具の後始末。ぜぇんぶ、お金と手間のかかることばかりだ。だったら、せめて老後や死後の迷惑を少しでも減らせるよう、今から準備して欲しい。

 人間70歳も過ぎたら、謙虚にひっそりと死んでいく死をデザインしておきなさい。   
 そうでなきゃ、悲惨な最期が待ってるぞ。愛する子どもや孫たちに迷惑と負担をかけながら、そして憎まれながら死んでいきますか?

老人と海

 最近、書棚を整理していてヘミングウェイの『老人と海』を手に取った。
 
  老人は戦った。
 
  三日三晩、孤独の闇の中で戦った。
 
  巨大なマグロを倒すため。
 
  今度はそれを守るため、鮫の群れと戦った。
 
  ふたつの孤独な戦いの結果、そこには何も残らなかった。
 
  そして孤独な老人は、ライオンの夢を見ながら永遠の眠りにつく。
 
 この長編は、「The old man was dreaming about the lions」という一文で幕を下ろす。中学生だった私は、恐ろしいまでの孤独にも負けない、老いぼれた漁師の「潔さ」に泣きじゃくったものだ。
 
 みなさんは、この本、読んだことがあるだろうか。1952年に出版された同書は世界的なベストセラーとなり、後にヘミングウェイは、ノーベル文学賞を受賞した。
 
  主人公の人生を象徴する二つの闘い。
  カジキマグロとの闘いは若い頃の人生。
  鮫との闘いは、年老いた現在の姿。
  鮫に食い荒らされたカジキマグロが老人とダブる。
  そして、港に着いた老人を迎える少年の優しさが感動を誘う。
  誰も頼らない「潔さ」。
  すべてを自己解決する「潔さ」。
  孤独に泣き言をいわない「潔さ」。
  そこに垣間見える、打ちのめされても決してあきらめない人間の尊厳。  


 作者であるヘミングウェイは、1899年、シカゴ生まれ。父は狩猟と釣りを好んだ医師、母は芸術好きの女性であった。第一次世界大戦中にイタリアに渡り、対オーストリア戦線で負傷。ミラノの病院で赤十字の看護婦アグネスにひと目惚れする。が、8歳年上のアグネスは彼の求愛を受け入れなかった。 
 
 以降の彼は、束の間の結婚と離婚をくり返す。アグネスとの経験が、その後の生き方に大きな影を落とすことになった。『老人と海』同様、人生の孤独はヘミングウェイを苦しめた。そして、1961年、アイダホ州の自宅で猟銃を口に当て自ら命を絶った。
 
 この年の米国はケネディが大統領に就任。キューバ危機が迫っていた。キューバは『老人と海』の舞台となった地だ。彼自身も当時暮らしていた同地から、退去せざるを得なくなった直後のことだった。

父返る

 初めて認知症の兆候が表れてから6年半、東京・宮崎を転々としながら療養してきた父であったが、最後となった国立病院の主治医からは、昨年夏以降、いつどうなってもやむを得ない状況であることを告げられていた。母も私も、その時を迎える覚悟と準備はできていた。突発的に亡くなられる方もいるわけで、その意味では、父も母も、そして私も幸せだったと受けとめている。
 
 唯一点残念であったのは、亡くなる2年前からは家族の顔も名前もわからなくなるところまで認知症が悪化してしまったことだ。私はともかく、母にとっては、月に一度父を見舞い、あれやこれや世話を焼きながらも母のことを認識できない父を目の当たりにすることは、さぞやつらいことだっただろう。逆に救いとなったのは、一切の延命治療を行わなかったため、臓器の自然な機能低下により静かで穏やかな最期であったことである。
 
 父の死は、いろいろなことを改めて考える時間を与えてくれた。私は父が亡くなる少し前に49歳となり、俗にいう四苦八苦の入口に差し掛かった。四苦、つまり「生老病死」について考えながら気づいたのは、昨今の異常とまでいえるような情勢の中において、戦争や殺人や事故や自殺ではなく、病気の延長線上で最期を迎えられるということは、人間にとって本来あるべき幸せな人生なのではないか・・・ということである。こう考えると、父の死は理想的なものだったかも知れない。
 
 妙なもので、今の私には絶えず父が傍にいてくれていることがよくわかる。入院療養していた時期、あるいは生前元気であった頃よりも、父を非常に身近に感じている。これは実に不思議な感覚だ。肉体は滅びても魂は残る。そういうことって本当にあるんだなぁ~と実感している今日この頃である。

終の棲家は嘘八百

 2006年。
 この年は最初から最後まで、父がショートスティやデイサービスを利用している間を縫って、母と首都圏の施設を見て廻った。全部で何ヶ所出向いたことだろう。うち8ヶ所では体験入所もした。が、ここに父をお願いしようという気持ちになるところはひとつも無かった。そもそも価格が高い。

 それに加えて、認知症への対応、夜間緊急時の医療サポートという、私たちがもっとも重視していた部分で納得できる答えがどこにも見つからなかったのだ。認知症でも安心して下さい。そう謳っておきながら、認知症の入居者がひとりもいない。状況により、退去願うこともある。殆どの施設でそう言われた。こちらは終の棲家を探しているつもりでも、あちらは必ずしも終の棲家を提供しているわけではないのだ。

 
 夜中に何かあったら、どんな立場の誰が、具体的にどこまでのことをやってくれるのか。明確に答えてくれないのだ。提携医療機関の名前をパンフレット上に記載してあるにもかかわらず、具体的な提携の中味を誰ひとり教えてくれないのだ。
 
 一連の施設見学から学んだこと。あるいは、父が私に教えてくれたこと。
 
 料金とサービスの質に相関関係はない。高く払ったからといって、医療や介護の品質が良くて安心なんてことはない。特に認知症の場合、どの施設も、どの専門職も手探りなんだな 

と感じた。それと、提携や連携という言葉のグレーさ。入居する側からしたら人生最後の大きな買物。ここらへんを曖昧にしたまま契約なんかしたら大変だ。
 
 2007年1月末、父は東京を離れ、私が仕事で関係のあった宮崎の医療の系列会社が運営する賃貸アパートに移った。そこはアパートとは言え、医療・介護・食事・各種生活支援等を必要に応じて出前するという、全国的に見ても独自の運営方式にトライをしていた。しかも一切合財で月額20万円と安い!(ちなみに都会であれば倍は必要) 
 
 が、東京暮らしの長い父母にとっては異国の地も同様。母が納得しても親族から反対されたり、それはもう大変だった。父母を引き離すとは何と親不孝なんだ、等と叱責されたりもした。具体的なことは何もしてくれない人に限って、あれこれと好き勝手を言うものなのである。けれども、いつまでも果てしなく続く介護に疲弊した母の言葉が私の背中を押した。
 
 お父さんが憎い。そんなふうに思う自分が憎い。もう死にたい。
 
 いっそ東京から遥かかなたに引き離した方がいい。そんな気持ちになったのだ。南国の温暖な気候と緩やかな時の流れのせいか、転居してまもなく父の問題行動が落ち着いた。私は月に2回、宮崎まで父の様子を見に行く。うち1回は母を連れて。このパターンがかれこれ3年半続いた。
 
 後半の1年半、父は宮崎空港近くの国立病院に移った。結核感染の疑いが出たため隔離される形になったのだ。が、結果的には結核菌は確認されず、かと言って、既に寝たきり状態であった父を再び移動させるのは困難ということで、そのまま入院生活を続けることになる。

 これは父からのプレゼントだったと思っている。なぜなら、この病院が空港から歩いていける距離にあったため、毎月の見舞いが極めてラクになったからである。

 
 なお、主治医には予め、一切の延命治療をしないこと、父の状態を月1回文書で送ってもらうことを依頼しておいた。そして、父は他界するまで同所で暮らしたのである。

老老介護の地獄絵

 夏場から、父は夜間せん妄が激しくなった。戦争体験からくると思われる夢にうなされ、部屋の中に敵がいると叫び、窓ガラスや鏡を自分の拳で粉砕した。止める母を殴り眼底骨折にまで追いやった。精神安定剤なしでは夜を過ごせないようになり、日中は片時も母のそばを離せなくなった。これが、元来、社交的で友達づきあいが何より元気の素であった母には堪えた。

 
 母が救急車で担ぎこまれる件があってから通いはじめた医療機関では、アルツハイマーの進行する父と二人っきりの生活こそが、母の最大のリスクだと指摘された。私の考えと完全に合致したため、この医療機関に継続してお世話になることを決めた。
 
 一旦はできるところまで自分でやってみる、父さんとふたりでやってみる、と踏ん張った母ではあったが、もう死にたいとまで言うところまで来てしまった。何が母を苦しめたかと言うと、徘徊である。家のなかで自分を叩いたり、モノを壊すのはまだ我慢できる。しかし、近所の家や警察の厄介になるようになると、もう惨めで情けなくてダメだ。そう言って母は涙を流した。
 
 兼ねてより計画しては立ち消えになっていた、介護保険サービスの利用を開始した。ホームヘルパーが家に上がりこんでくることを良しとしなかった母と協議を繰り返した結果、ようやくのことでデイサービス(通所介護)とショートステイの利用に踏み切った。とにもかくにも、父を母から離すことで、一日のうち何時間かでも母を介護から解放してやることが目的だ。週1日から始め、徐々に回数を増やしていった。デイサービスに出かけた日の夜は、父もぐっすりと眠るようになった。
 
 しかしながら、父の認知症は確実に進行し、クリスマスの頃には、母を市役所の職員と呼んだり、すでに亡くなっている父の姉と呼ぶようになった。そして、あれほど好きだった時代劇や西部劇のビデオを見ることもなくなり、部屋にいる時はボーッと天井を見つめているだけといった状態になっていった。この時点でまだ救いがあったとすれば、食事のみならず、排泄まで自力でできていたことだ。 

   

 ひとによって頻度や間隔がまちまちな排泄がコントロールできなくなったら、自宅での療養は不可能、というのが私の見解だ。排泄に介助が必要となれば、家族はおちおち眠ってはいられないのだ。なるべくならば家で介護をしてあげたいという母の希望に目をつぶっていたのだが、ついに、この年の11月、母からギブアップのSOSが入った。決断を下さなければならない時が訪れた。母を救うか、共倒れさせるか、である。

ここまで来たら診てやるという医者

 母はその後、偏頭痛と、肩からリンパ腺にかけての原因不明の痛みに苦しんだ。医者に診てもらおうにもキツくて通院ができない。タクシーに乗ると、眼の前が真っ暗になり、世の中がグルグルと回りだす始末。おまけに、認知症の父が余計にイライラを募らせる。母の訴えを聞いて、私は往診してくれる医師を見つけようとした。当時はインターネットとも疎遠で手作業で探すしかなかった。電話帳を開いても、どこが往診してくれるのかわからない。
 
 医師会に電話を入れたが、はっきりしたことはわからない。食い下がると、じゃあ保健所にでも電話したらわかるかも知れないと言われた。しかし、保健所の対応も話にならず、結局は仕事の合間に電話帳を持ち出してきて逐一電話をかけまくった。一〇数件目にかけた診療所の職員が、たまたま往診に熱心な医師を知っていて救われた。
 
 それにつけても納得できなかったのは、医師会にも保健所にも、地域の医療機関の情報が集まっていないことが一点。もう一点は、各医療機関の対応の劣悪さであった。
 
 「うちはやってませんねぇー」
 

 「ちょっと今忙しいのでぇ」
 
 「最近は、往診してるとこ、ないんじゃないかなぁー」

  「来られます? 来てくれたら、若干診療時間を過ぎても診れる場合もありますけどぉー」
 (ふざけるなっ!)
 
 これが病院や診療所の受付職員の平均的接遇レベルなのかと思うと、腹立たしさを通り越して情けなくなる。卑しくも、医療機関というのは地域の社会資源である。そこに従事する者たちがこうでは話にならない。いざという時の情報源を日頃から見つけておく必要がありそうだ。
 
 結果的に、母は定期的に往診を受けるようになったが、かかりつけの医師、それも何かしらの事情で通院が困難になった場合には往診も厭わない、そんな医師を確保しておきたいものだ。
 
 つくづく身につまされて感ずることは・・・、
 
 知っているか、知らないか。
 
 世の中は、たったこれだけの違いで歴然とした格差がついてしまうということ。何も知らずにいると、徹底的に不利益を被ってしまうのがわが国の医療なのだ。

母倒れる ~患者を罵倒する白衣の悪魔~

 

 2005年6月、出張先の仙台でお客様と商談中に携帯が鳴った。老親ふたりが暮らしている東京郊外の救命救急センターからだった。
 
 母が倒れた。
 
 必死に冷静を装いながら会話する。相手は看護師か。救急車で運ばれたものの検査の結果、異常が認められない。従って早々にお引取りを、というのが相手の言い分のようだ。
 
 とにかく母に代わってくれるよう頼んだ。母の生気のない弱々しい声が聞こえた。あの気丈な母からは想像もつかなかった。検査結果どうこうではなく、頭がくらくらして立ち上がることができない。このまま家に戻されても、父とふたりでは休むこともできないし、別の意味で大変だ。だから、しばらくベッドで休ませて欲しい。これが母の言い分だ。
 
 父も傍にいるようだが、役には立たないだろう。前年の秋くらいから、父には呆けの兆候が現れていた。後でわかったのだが、倒れた母を目の前にして119番すらボタンを押せなかった。その代わりに外に飛び出して近所の家に何かを訴えて廻ったようだ。隣の家の旦那さんが察知してくれて、救急車を呼んでくれたのだ。
 
 再び、看護師とのやりとり。母の所持品のなかに手帳があり、私の名刺と携帯番号が書かれたメモがあった。看護師は、だれが何時に母を引き取りに来るのか、その答えだけを求めてきた。そりゃあ忙しいのはわかるよ。でも、白衣の天使としてはあまりにも事務的で杓子定規じゃない?
 
 そんなことを考えながら、私が仙台にいることを伝えると、奥さんは?ときた。家内も仕事を持っており、飛んでいくことは困難だろう。が、実際問題として家内に動いてもらうしかなさそうだし、こんな看護師のいる場所に母を置いておくことは逆に危険というものだ。
患者を人と思っていない。この看護師にとって、母は救急用ベッドを占拠している単なるモノ。それも邪魔モノのようだった。

 
 3時間後、家内が引き取る形で母と父は家に戻った。翌日以降、安心のできる医療機関で母を診てもらうために、カルテと検査データを提供してもらう段取りを家内に予め伝えておいた。多少のギクシャクはあったが、どうにか最悪の事態を乗り切った。結果的に、母は父の介護からくる過労とストレスと判断される。そしてこれが、母にとっての地獄の始まりであった・・・。

はじめに

 平成22年11月14日、父が死んだ。
 
 告別式の日、火葬場の煙突から立ち上る絹の白糸が、天空に戯れる桃色の子羊たちと合流するのを眺めながら、この六年半のことが走馬灯のように甦ってくる気がした。長かったような気もするし、アッという間の出来事だったようにも思えてくる。
 
 認知症の発症、数々の異様な行動、警察やご近所にかけた迷惑、病医院や施設とのトラブル、宮崎への転居・・・。この間、介護疲れで母は二度救急車で運ばれ、やがて脳梗塞が発覚。私は妻子との別居を余儀なくされ、実家で母を見守りながら仕事に出かけることに。
 
 家じゅうが疲弊し、お金は湯水のように流れ出ていった。医療の世界で仕事をしていた私ではあったが、医療や介護に係る諸々の手続きは複雑で、かつ使い勝手は決していいものでないことを改めて痛感した。増してや、両親の代わりに病医院や自治体に出向いてやりとりをしようとすると、個人情報がどうたらこうたらと言われて、なかなかどうして面倒くさい。実の息子であっても、だ。
 
 いろいろあったよなぁ。ふぅっと息を吐きながら、これまでの自分の仕事について考えを巡らせる。私はこの一〇年、病医院経営のお手伝いをしてきたが、これと並行して五年前からは、医療や介護を利用する側である患者さんたちを支援する市民活動も行ってきた。してみると、父絡みであちこちを奔走したひとつひとつのことが、私の血となり肉となっているんだよなぁ~と感じられてきてならない。
 
 そしてこの血と肉は、いまの混迷する時代を100年近く生きていかなければならない人たちにも伝えておくべきではないか。医療や介護をはじめとする数々の「通らねばならない道」で、知らないというだけで無用な不利益を被らずに済むように。そんな思いから、このブログをスタートし
、これから老後を控える多くの人たちに届けたいと考えた次第である。

 
 世界の最長寿国になったわが国ではあるが、逆に、長生きしなければならない時代ゆえのさまざまなリスクを背負っていることを忘れてはならない。例えば、医療・介護・お金・葬儀等の問題。これらは、命あるものであれば誰しもが必ず通る道でありながら、そもそも積極的には考えたくないテーマであることに加え、専門性が高くとっつきにくい分野である。
 
 だから、ついつい先送りにしてしまった結果、いざその時になって思わぬ不利益を被ってしまうという危険を孕んでいる。手っ取り早く言ってしまえば、要するに、払わなくてもいいお金を必要以上に費やしてしまうということだ。
 
 そして、多くの場合、分かれ目はきわめてシンプルだ。
 ちょっとした情報や知識を持っているか持っていないか。
 危険を回避する術を知っているか知らないか。
 
 たったこれだけの違いで運不運が分かれてしまうのが現実なのである。つくづく、私たちは元気なうちにこそ、しっかりと老後の計画を立て、準備をしておくべきだと思う。
 
 この冊子が、みなさんが自分自身の円滑な老後計画を考えるきっかけとなってくれれば、いいかなぁと思っています。そして、私が主に高齢者世帯を対象に行っているお手伝いの内容について知っていただき、少しでも関心を持っていただけたとしたら、こんなに嬉しいことはありません。どうぞ肩の力を抜いて、気楽なご気分でページをめくってみてください。
   
平成23年 初夏                                                                                                             
                
非営利特定活動法人『二十四の瞳』  理事長  山崎 宏 

シニアたちへの提言 ~クールな老後のすすめ~

人間の幸不幸は、環境ではなく心(脳)が決定するものです。

春は花粉が多くて大っ嫌い。
夏は暑くてかなわない。
秋は台風シーズンで雨ばっかりだから憂鬱だわ。
冬は寒くって凍えちゃうからイヤだイヤだ。

環境や他者に泣き言や憎まれ口を言ったところで何も始りません。
こんなふうに心が振り回された状態では自らの苦悩は解決できないのです。

生きていればいろいろな出会いがあるもの。
春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色。
四季折々のなかで、素晴らしい出会いがあなたを待っています。

ちょっとイメージしてみてください。
春は色鮮やかに咲き乱れる花に恋を予感し、
夏は思い切り心を解き放ち、
秋はシックに愛を語り、
冬は暖炉の炎に希望を見る・・・。

生老病死という人生の険しい坂道だってそう。
心が強ければ悠々と乗り越えていくことができるのではないでしょうか。
四季折々の景色を楽しむかのように。

祝福の中に生まれ希望の時を生き、
老いに連れさまざまな経験とともに円熟し、
病いを得てそれと共に生きる知恵を学び、
やがて万事を次世代に譲り自然の摂理に従い静かに去っていく・・・。

生きましょう。
死にたいなんて思ってはいけません。

熟年ライフを明るく楽しく自分らしく過ごしていくために、
心のストレスを巧く解放していきたいものです。
以下、ご参考になさってみてください。

脱ストレスの6大条件
①安全快適な生活環境
②社会貢献
③知的成長
④余暇の生き甲斐
⑤心身頭の健康
⑥社交

今回からしばらく、シニアのみなさんにメッセージを綴ってまいります。
長生きすることと引き換えに私たちが背負っていかねばならないこと。
国も自治体も子どもも当てにはできないという現実。
そう。私たちシニアは、本当の意味で自律していかなければならないのです。
残念ながら、もはやニッポンにはシニアを支えるだけの意思も財源もありません。

だから・・・。
一日でも早く、自分の幕引きを自分でするための準備に取りかかることです。
そのための具体的なアクションについて、私なりのメッセージをお届けしていきたいと思います・・・。

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