父返る
初めて認知症の兆候が表れてから6年半、東京・宮崎を転々としながら療養してきた父であったが、最後となった国立病院の主治医からは、昨年夏以降、いつどうなってもやむを得ない状況であることを告げられていた。母も私も、その時を迎える覚悟と準備はできていた。突発的に亡くなられる方もいるわけで、その意味では、父も母も、そして私も幸せだったと受けとめている。
唯一点残念であったのは、亡くなる2年前からは家族の顔も名前もわからなくなるところまで認知症が悪化してしまったことだ。私はともかく、母にとっては、月に一度父を見舞い、あれやこれや世話を焼きながらも母のことを認識できない父を目の当たりにすることは、さぞやつらいことだっただろう。逆に救いとなったのは、一切の延命治療を行わなかったため、臓器の自然な機能低下により静かで穏やかな最期であったことである。
父の死は、いろいろなことを改めて考える時間を与えてくれた。私は父が亡くなる少し前に49歳となり、俗にいう四苦八苦の入口に差し掛かった。四苦、つまり「生老病死」について考えながら気づいたのは、昨今の異常とまでいえるような情勢の中において、戦争や殺人や事故や自殺ではなく、病気の延長線上で最期を迎えられるということは、人間にとって本来あるべき幸せな人生なのではないか・・・ということである。こう考えると、父の死は理想的なものだったかも知れない。
妙なもので、今の私には絶えず父が傍にいてくれていることがよくわかる。入院療養していた時期、あるいは生前元気であった頃よりも、父を非常に身近に感じている。これは実に不思議な感覚だ。肉体は滅びても魂は残る。そういうことって本当にあるんだなぁ~と実感している今日この頃である。
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