その6 往生際の美学
人間誰しも、自分の意思で生まれてくるわけじゃあない。生まれてからの長い人生にしても、自分の思い通りになることなどまずないだろう。仏教では思い通りにならないことを『苦』と言う。だから『生老病死』を四苦と言う。であればせめて、最後の最期に自分の死に方くらいは自分で決めようではないか・・・。というわけで、リビング・ウィルである。
クールな老後の極めつけが医療との関わり方であることはまちがいない。その中でも「ターミナルケア(終末期医療)」である。特に、自然の摂理や人間の尊厳を無視した延命治療については、元気なうちから方針を固めておかねばとんでもないことになる。
昔で言うスパゲッティ、今ならパスタ。身体中を管で繋がれ、無理やり生かされるアレである。もともと医者はハナから延命治療に疑問を持っていない。むしろごく当然のことと思っている。今でも放っておいたらいつの間にか、点滴、酸素吸入器、人工呼吸器、尿管、心臓の状態を管理する管を挿入されてしまう確率が高い。患者の家族が、「何とか生き長らえさせて下さい」などと言おうものならば、待ってました、ってなことになる。病院としては莫大な売上を計上することができるからだ。
が、当の患者本人の苦痛たるや想像を絶するものがあろう。数時間おきに採血されて腫れ上がった左右の腕を見たら、家族だって後悔するのは時間の問題だ。おまけに、延命治療を選択した場合には、最期の瞬間に患者とのお別れの時間は取れない。機械のゴーゴー言う音で話し声など全く聞こえない。
こういうことを踏まえて、自分が現場復帰できない状態だとわかった時にどうするか。今から延命治療へのスタンスを決めて家族に伝えておくことだ。この、家族に伝えておくという点が重要だ。だって、いざその時になったら、アナタは意思表示できないのだから。
さらにもうひとつ。延命治療の入口に位置するのが「胃ろう」だ。脳外科手術の後などに、胃に穴を開けて管を通し、そこから強制的に栄養液を入れるやつだ。誤嚥性肺炎を防ぐのが目的だが、実際には看護者や介護者の管理負担を軽くする目的で、ちょっとしたことですぐ胃ろうを造設されてしまう場合が多い。
よくあるのは、脚を骨折して入院しただけで、「ご家族の介護も大変ですから、この際、胃ろうにしちゃいますか」的なノリで持ちかけられたりする。これで患者は食物を自分の口で味わうことができなくなってしまう。
肝心なのは、本人の意思を反映することだ。将来的に経口摂取が望めないとわかった時にどうするのか。人生最大の楽しみでもある「食べること」を失ってまで生きたいかどうか。私であれば、例え死期が早まったとしても、こんな栄養補給は願い下げである。
が、実際に胃ろうにするかどうかを決めなければならない時、多くの場合、本人の決断力は既に失われている。家族は人目も気にして、「とりあえずお願いします」などと言いがちだ。医者や看護師、更には知人たちに冷たいと思われはしないかと、どうしても体面を気にしてしまうところがある。だから、元気なうちから家族には自分の希望を明確に伝えておく必要があるのだ。