終の棲家は嘘八百
2006年。
この年は最初から最後まで、父がショートスティやデイサービスを利用している間を縫って、母と首都圏の施設を見て廻った。全部で何ヶ所出向いたことだろう。うち8ヶ所では体験入所もした。が、ここに父をお願いしようという気持ちになるところはひとつも無かった。そもそも価格が高い。
それに加えて、認知症への対応、夜間緊急時の医療サポートという、私たちがもっとも重視していた部分で納得できる答えがどこにも見つからなかったのだ。認知症でも安心して下さい。そう謳っておきながら、認知症の入居者がひとりもいない。状況により、退去願うこともある。殆どの施設でそう言われた。こちらは終の棲家を探しているつもりでも、あちらは必ずしも終の棲家を提供しているわけではないのだ。
夜中に何かあったら、どんな立場の誰が、具体的にどこまでのことをやってくれるのか。明確に答えてくれないのだ。提携医療機関の名前をパンフレット上に記載してあるにもかかわらず、具体的な提携の中味を誰ひとり教えてくれないのだ。
一連の施設見学から学んだこと。あるいは、父が私に教えてくれたこと。
料金とサービスの質に相関関係はない。高く払ったからといって、医療や介護の品質が良くて安心なんてことはない。特に認知症の場合、どの施設も、どの専門職も手探りなんだな
と感じた。それと、提携や連携という言葉のグレーさ。入居する側からしたら人生最後の大きな買物。ここらへんを曖昧にしたまま契約なんかしたら大変だ。
2007年1月末、父は東京を離れ、私が仕事で関係のあった宮崎の医療の系列会社が運営する賃貸アパートに移った。そこはアパートとは言え、医療・介護・食事・各種生活支援等を必要に応じて出前するという、全国的に見ても独自の運営方式にトライをしていた。しかも一切合財で月額20万円と安い!(ちなみに都会であれば倍は必要)
が、東京暮らしの長い父母にとっては異国の地も同様。母が納得しても親族から反対されたり、それはもう大変だった。父母を引き離すとは何と親不孝なんだ、等と叱責されたりもした。具体的なことは何もしてくれない人に限って、あれこれと好き勝手を言うものなのである。けれども、いつまでも果てしなく続く介護に疲弊した母の言葉が私の背中を押した。
お父さんが憎い。そんなふうに思う自分が憎い。もう死にたい。
いっそ東京から遥かかなたに引き離した方がいい。そんな気持ちになったのだ。南国の温暖な気候と緩やかな時の流れのせいか、転居してまもなく父の問題行動が落ち着いた。私は月に2回、宮崎まで父の様子を見に行く。うち1回は母を連れて。このパターンがかれこれ3年半続いた。
後半の1年半、父は宮崎空港近くの国立病院に移った。結核感染の疑いが出たため隔離される形になったのだ。が、結果的には結核菌は確認されず、かと言って、既に寝たきり状態であった父を再び移動させるのは困難ということで、そのまま入院生活を続けることになる。
これは父からのプレゼントだったと思っている。なぜなら、この病院が空港から歩いていける距離にあったため、毎月の見舞いが極めてラクになったからである。
なお、主治医には予め、一切の延命治療をしないこと、父の状態を月1回文書で送ってもらうことを依頼しておいた。そして、父は他界するまで同所で暮らしたのである。