まちがいだらけの処方箋


米国では薬の処方を3剤までに抑えるのが原則らしい。このことは医学生向けの教科書にも明記されているらしい。とすれば、医師にとっての基本中の基本ルールと言ってもいいだろう。例えば先程の女性のケースであれば2剤か3剤で済むのではないか。とくに高齢者の場合、体内での薬の分解や排泄に時間を要するため、何種類もの薬を一日に2回3回と飲めば、薬同士の相乗作用が生じ非常に危険であることを認識する必要があるという。

高齢者の多くは、糖尿病、高血圧、コレステロール過多等に対処するために定期的に通院して薬を処方してもらっている可能性が高い。しかし、年齢がいけばいくほど薬を常用するには注意が必要だということを私は母の主治医から教わった。しかしながら巷の医師の多くは、そんなことはお構いなしで薬を処方しまくっている可能性がある。

例えば糖尿病に関しては、正常の人、境界型糖尿病の人、糖尿病の人とで、生存曲線にそして差がないそうだ。しかも、歳を取ってからは、むしろ血糖値が高い方がボケないという認知症の研究結果もある。なぜかというと、脳に栄養を与えるのはぶどう糖と酸素で他のものは脳の栄養にはならない。糖尿病の人は脳の栄養が充分に行き渡っているため、血糖値が低い人よりもむしろ認知症にはなりにくいのだそうだ。つまり、認知症になりたくなければ、血糖値をむやみに下げすぎるのは危険で、ちょっと高めのほうがいいという考え方もできるのだ。
 
どうしてそんなことが起きるのかというと、血管というのは、若い人ほど血液が通る部分が広くて血管の壁が薄い。ところが歳を取るにつれて次第に血管の壁が厚みを帯びてきて、血液の通る部分が狭くなる傾向がある。となると、血糖値が低ければ血液中の糖分や酸素が頭のなかに出ていきにくくなってしまうのである。こう考えると人間の身体というのは実にうまくできていて、血糖値が高くなるのも血圧が高くなるのも加齢に伴う適応現象のひとつだと理解することができる。

余談だが、ちなみに甘いものに関しても、糖尿病で寿命を縮めるのは
30歳代~50歳代までの人で、70歳を超えたら血糖値が高くても全然寿命には関係ないそうだ。これを聞いた母は大好物の和菓子を山のように食べまくっている(笑)。
 
私がそれまでに接点を持った医師たちは、血圧や血糖値が高いと動脈硬化の危険因子になるとしてスラスラと処方箋を書いていた記憶がある。しかしそれは、たしかに若い人については問題ないのかもしれないが、高齢者の場合には必ずしも妥当とは言えなそうである。実は、薬で血圧や血糖値を正常に引き下げたらボケたような症状が出たという症例報告はたくさんあるそうで、欧米の高齢者医療では常識だそうだ。 にもかかわらず、患者の年齢や体質も考慮せず、検査データを見ただけで機械的に血糖値を下げるよう指示して、若い人にするのと同じような治療をする医師たちは、高齢者医療の特殊性を理解していないのではないだろうか。

血圧に関しても、正常群とボーダーライン群、即ち
130台、150台の人では生存曲線はまったく違いがない。ただ、180を超えた場合には興味深いデータがある。この場合、血圧の薬を飲んで治療した群と治療しない群とで心脳血管障害による死亡件数を比較すると、60歳代の場合で、治療群の死亡者数は100人中3人、非治療群の死亡者数は9人。なんと3倍だ。ところが、80歳を超えたらこの差がなくなってしまうそうだ。このあたりのデータと患者さんの年齢および体質を総合的に見ながら処方するのが本来の治療ということになる。高齢者医療というやつは実に奥が深いもののようだ。

日本では、大学病院をはじめ、薬屋さんと結びついている医師が多い。そのせいか盛んに薬を勧めたがる傾向が強いのかもしれないが、少なくとも
80歳を超えた患者さんに対して、血圧を基準値(140)まで下げなければ…等と言っているのは藪医師だろうからすぐに代えた方がいいとのこと(笑)。

あと、コレステロールもやはり下げ過ぎない方がいいらしい。実際、平均的な日本人よりよく肉を食べる沖縄の人たちやハワイの日系人のほうが長生きだ。とくに心臓を専門にする循環器内科では、とにかくコレステロール値を下げろということが多い気がする。コレステロールが高いと急性心筋梗塞だとか不安定狭心症、あるいは心臓性突然死といった急性冠症候群を引き起こしやすい。だが一方で、がんに関してはコレステロール値が高いほどなりにくく、低いほどなりやすいというデータがある。また、脳卒中について言えば、
240から270の間が一番なりにくいということもある。

さらに、コレステロールが低いとうつ病になりやすいというデータもある。実際にうつ病と診断された患者さんを比較すると、コレステロールの高い人は非常に改善が早いのに、低い人は増悪するケースが多いそうだ。コレステロールはセロトニンという物質を脳に運ぶのに非常に大事な役割を担っていて、セロトニンが足りなくなるとうつの症状が出やすくなるのがその原因だ。

コレステロールを下げればたしかに心臓病にはなりにくいかもしれない。でも、がんやうつにはなりやすい。で、うつということになると非常に暗くてつらい老後を送らねばならなくなる。しかも現在の西洋医学では、虚血性心疾患の場合はバイパス手術という明確なソリューションがあるが、がんやうつには決定的な治療法はない。ならば、楽しく長生きすることを考えるのであれば、コレステロールが低いよりは高い方がベターという判断も成り立つことになる(笑)。


こうして考えてみると、ただ単に基準値から外れた数値を問題視してそれぞれに対応する薬を処方するというやり方は、やはり釈然としない。西洋医学はEBM(科学的根拠に基づく医療)ということを声高に叫んでいるのだが、どうも言動不一致な点が多い気がしてならない。まさしく「クスリはリスク」である(笑)。

毎日3回8種類の薬を飲む女性


知人の依頼を受けて生涯学習講座で話をしたときのことです。休憩時間に参加者たちがお喋りしているのを聞くと、薬に関する話題が実に多いのに驚きました。参加者の平均年齢は70歳くらいでしたから、ほとんどの人が日常的に病医院に通っていても不思議ではないかもしれません。ですが、問題は薬の種類と量です。話の輪に加わってみたら、なんと一人当たり約3種類の薬を服用していることがわかりました。まさに薬のコレクションです。しかも2年以上もの長きに渡って飲んでるという人たちが多いのです。

ある女性は、高血圧と頭痛で通院して2年以上になるそうです。その過程で処方される薬の数は次第に増え、現在ではなんと8種類。詳しく聞いてみると、血圧を下げる利尿剤の他、鎮痛剤、睡眠剤、眩暈薬。更に、副作用予防としてカリウム剤、痛風薬、胃薬にビタミン剤…といった具合に、細かな症状毎に薬を付け足されているのです。根本の症状さえ抑えればいいものを、正直驚かされました。

この話を聞いていた元看護師の女性は、「病院勤務していたときから
投薬に対しては、いくつかの疑問があった。ひとつは、症状が同じだと投薬も全く同じだということ。頭痛の場合はこのセット。関節が痛いときはこのセットと、投薬が決まっていて、あれなら自分でも投薬できてしまう」とあきれたように語っていました。

考えてみれば、たしかに頭痛や関節痛には原因があるはずで、この原因を潰さずして薬で痛みを抑えようとするだけでは何も解決しないはずです。彼女はさらに、「もうひとつは、薬には必ず副作用があるということ。例えば、ある症状を抑える薬には胃や肝臓に悪影響をもたらす副作用が起こる可能性があってもお構いなし。問題となっている症状を改善できさえすれば、あとは胃が悪くなろうが肝臓が悪くなろうが関係ないとでも思っているかのような処方の仕方」だったそうです。

こんなことが罷り通っているとなると、いよいよ患者さん側が情報武装して自己防衛しないと、近い将来とんでもない薬害に見舞われることになるなと深刻な気分になりました。
どうも今日の西洋医学の医師は、臨床薬理学を無視してガンガン薬を処方する嫌いがあります。

この講座を企画した知人からも興味深い話を聞きました。彼は病院通いしているお母さんが何種類もの薬を飲んでいるのを見かねて、認知症のお父さんがお世話になっていた医師のところへ転院させたそうです。それまで大病院志向が強かった彼のお母さんは、いつの間にか降圧剤をはじめとする薬コレクターに陥っていたのです。彼が信頼していた医師は、そんなお母さんに対して、薬を減らしていく治療を行ってくれました。それまでに出会ったすべての医師たちのせいで年々薬の種類が増えていった経緯を考えると、まったく逆の指導をしてくれた医師を、彼は根掘り葉掘り質問攻めにしたそうです。問題意識の高い男ですので、その医師に積極的に接触して、薬について知っておいたほうがいいことを教えてもらったわけですね。
彼が入手した情報はかなりのボリュームです。ここまで医師を活用すればすごい価値だと思います。講座の当日、彼は『両親の闘病から学んだ、まちがいだらけの高齢者医療』なるタイトルで、その戦利品、いや、高齢者向けの正しい薬の処方ガイドを面白おかしく話してくれました。次回、ご紹介しますね。

医療もエンターテインメント


ある意味では、
医療もサービス業です。サービス業であるならば、キーワードは『エンターテインメント』です。たまに誤解されて困るのですが、患者さんをエンタテインするというのは、何も患者さんをリラックスさせるために笑わせなさいと言っているわけではありません。サービス業で言うところの「(お客様を)もてなす」を一歩踏み込んで、「患者さんを癒す」ということです。『癒す』という言葉の本質的な意味は、「長い間欲しくてたまらなかったものを手に入れさせて満足させる」ということです。そして、患者さんがずっと欲しかったものとは、『気持ちがわかってもらえたという安堵感』です。特にプライマリーケアを担う臨床医はこの点をしっかりと理解する必要があるでしょう。
 
何かしらの苦痛や不安を抱えながらやっとのことで医師のもとを訪れた患者さんが、「ああ、キツかったけれど先生のところへ来てよかった」、「痛みの原因がわかってホッとした」、「痛み止めを打ってもらって随分楽になった」、「あの看護婦さんは注射がうまい。ちっとも痛くなかった」、「受付のお嬢さんは、いつでも元気でにこにこ。本当に元気づけられる思いだ」…等々。

極論すれば何でもいいのです。時間を割いて病医院を訪れた
患者さんがまったく癒されることがなかったとしたら、その病医院はその患者さんからお金をいただく価値がありません。厳しいかもしれませんがが、それがサービス業の本質だと思うのです
 
そして、このエンターテインメントのベースとなるのがサービスマインドとかケアマインドということになります。日本には「人が人を癒す」という言葉があります。この言葉をいま一度肝に銘じて欲しいと願います。医師をはじめとする医療従事者は、いつも病人や怪我人に囲まれています。それが日常の風景です。だから気を緩めると、痛みに耐えながらさまざまな苦難を乗り越えて受診にやってきた患者さんの大変さ加減に鈍感になりがちなのです。
 
患者さんにとって病医院は、非日常的な空間です。だから、何時間も待たされてようやく順番がきた患者さんに労いの言葉ひとつかけられないような医師は、社会人として非常識と言わざるを得ません。ましてや、初対面の患者さんに対して、ろくに挨拶もしない、名前も名乗らないなどというのは信じられません。藪医師とは、診断のできない医師や手術の下手な医師ばかりを言うのではありません。患者さんの立場になってその苦しみや痛みを理解しようとする意識。そして、それを少しでも和らげてあげようとする心。これらが劣っていても、それは立派な藪医師の条件だと思うのです。
 
この章の最後に、淀川キリスト教病院の名誉ホスピス長で金城学院大学学長の柏木哲夫氏の言葉をご紹介しておきます。柏木氏はクリスチャンの精神科医で、わが国のターミナルケアの権威です。

「これまでの近代病院には、検査・診断・治療・延命という
4つの機能があって、治らない患者さんについてはとにかく延命してきました。しかしこれからは、治らない場合にはしっかりとケアをして、その人がその人らしい人生を全うすることを援助できる医療でなければなりません。時代も環境も激変した今、もうそろそろ高度な先進医療ばかりを追求した従来の発想を脱却しなければいけないと思います。

そこで医療者に求められるのがケアとコミュニケーションの資質です。不治の患者さんは、つらい、悲しいという気持ちをわかってほしいと願っています。その気持ちに寄り添うようなケアとコミュニケーションを回復していかなければなりません。私は、これらがないと、もはや本当の医療とは言えないと思っています。」(2008915日、東京国際フォーラムで行われた『21世紀高野山医療フォーラム』での講演より抜粋)

視診・問診・触診を忘れた医者たち


さて、問診の話に戻すと、
私は、医療の質とは、突き詰めていけば『診療(診察と治療)の確かさ』と『患者満足度』だと考えています。そして多くの場合、前者は診立てと治療方針(自院で対応するか、然るべき連携先に振るかも含めての意味)、後者は根拠の提示とわかりやすい説明となると思っています。実はここで、医師と患者とのコミュニケーションという問題がクローズアップされてくるのです。
 
かつて、母校の云十周年記念行事の講師として聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明さんの話を聞く機会がありました。彼は、「医療とは患者と医師の両者で作り上げるもの。そこには必然的に信頼関係が不可欠であるが、そのためにはまず、医師は聞き上手に、患者は話し上手になるべし。」というくだりがあった。にもかかわらず、
「最近の医師は、医療の基本である視診・問診・触診がお座なりだ。データ偏重の悪しき産物だ」と嘆いていらっしゃいました。
 
私なりに噛み砕けば、患者さんがリラックスして、うまく話せるように効果的な質問をしながら診立てと治療方針を提示する。かつ、その根拠をわかりやすく説明して理解させる作業が医師には求められるのだと思います。

考えてみれば遠いギリシャ時代、医学の始祖ヒポクラテスも言っていました。「医術とは、患者の本性をよく考察した上で、今後の処置についてその根拠を示し、説明するプロセスである」と。こうしてみたときに、いま私たちのまわりに
溢れている医師たちたるや、果たしてそれを実践していると評価できるものかどうか、甚だ疑問に思う次第です。
 
視診・問診・触診
とは人と人との「触れ愛」です。患者さんを見るあたたかい眼差し、不安を受け止めてあげる優しく穏やかな語りかけ、手指の温もりを伝えるスキンシップ。この視診・問診・触診の過程で、アナタの人となりが患者さんに伝わるのです。両者間に信頼関係が芽吹く重要不可欠なプロセスということになります。

 
極論すれば、不慣れなうちは演技でもいいかもしれません。眼の前に座っている患者さんを身内の誰かだと思って、心の底から「どうしたのですか?大丈夫、いまキチンと調べて最善の方法を見つけますからね。心配しなくていいですよ。肩の力を抜いて、ラクにして。お辛かったでしょうねぇ。もうちょっとの辛抱ですよ」等と囁きながら視診・問診・触診をするのです。
3分も続ければ、患者さんの、少なくとも心は救われるはずです。ちなみに日野原重明さんは、冬場は白衣のポケットにホッカイロを入れています。触診するときに、患者さんに温かな温もりを注ぎ込むためだそうです。

患者第一のウソ


若干わき道にそれるかもしれませんが、最近では、「患者様第一」とか「患者様本位」とか「患者様視点」といったフレーズを盛り込んだ標語のようなものが掲示されている病医院をよく見かけます。わかってないなぁとつくづく思います。それが証拠に、待合いで見かける職員を誰でもいいから呼び止めて尋ねてみてください。「こちらの病院でいう患者第一とは、具体的にはどのようなことなのですか?」と。

果たして、
10人に声をかけたとして何人から然るべき回答が得られるだろうか。実際のところは、現時点でもほとんどの病医院が「自分たち(職員)第一」です。日常のオペレーションは勿論のこと、意識レベルでも患者よりも医師。その次にくるのが自分たちで、今日における日本の病医院においては、やはりどうしても「患者=ペイシェント(受難者)」となってしまいます。
 
先述の
NPOの調査によれば、病医院が提供するサービス構成要素のうち、診療の質のことを除くと患者さんたちがもっとも改善してほしいと願っているのが診療時間の問題だそうです。これは、待ち時間の割りに診療時間が短いということもありますが、診療時間の融通性、つまり、休日夜間も含めた診療時間の設定のことだそうです。例えば20数年前、大手のコンビニは文字通り夜の11時までしか営業していなかったものです。それが今や全国津々浦々、どんな片田舎に行こうがコンビニは24時間365日開いています。百貨店、量販店やスーパーマーケットだって同様に営業時間を延ばし、休業日を減らしてきました。

でも、当時から四半世紀が経とうとしている今日でも、医療機関の対応する時間帯は変わっていません。いや、それどころか個人の開業医などは休診日が増え、実質的にサービスレベルは落ちているのが現実です。サービス業と言われる各企業が顧客サービス向上を叫び、利用者の便宜を図るべくさまざまな経営努力をしてきたのに対して、病医院は何の努力も創意工夫もしていない…と言ったら言い過ぎでしょうか?

西洋医学のデータ偏重

はっきり言って、ほとんどの医者は患者さんの話をしっかりと聞いていないのではないでしょうか。

西洋医学が行われている現在の病医院の特徴を表わす言葉に「
3時間待ちの3分診療」というのがあります。長寿高齢化が進んだ、国民皆保険制度のおかげで誰もが気軽に医療を受けられる、診療時間の長さが病医院の売上や利益と連動していない等々、理由はいろいろあるかとは思いますが、私からすると、わずか3分程度患者さんと向き合って適切な治療が行えるなどということはあり得ません。いや、診察の前に検査して、その検査データを見ているから大丈夫だという考えもあるかも知れませんが、今日の主流である生活習慣病についてはそんな簡単なものではないでしょう。患者さんが長い長い人生のなかで繰り返してきた生活習慣です。患者さんとじっくり膝を突き合せなければ問題の根本解決などできるはずがありません。逆に言えば、その膨大な歴史のなかの何が悪さを起こしたのか。この原因を見極めることなしに、糖尿病ならAセット、高血圧ならBセット的な処方を機械的に行っているのが現在の医療だということになります。

元東京大学総長で東大名誉教授の森亘氏は、ある講演会で、「現代の多くの病気については、その原因・経過・治療に心理的社会的要因が大きく関わっているということを、医師としては常に心に留めておかなければならない。こうした心身医学的アプローチにおいては、患者の内側にある心理面の把握と分析が非常に重要になってくることは当然で、そのためには、臨床検査によって得られた数値や画像を眺めるだけでなくね医師と患者が人間同士として接触し、患者の心に直接触れることが不可欠」だとしたうえで、『単純に病気や症状だけを治すことだけが務めではない。にもかかわらず今日では、全人的医療によって人間としての患者を癒すという医師本来の使命や目的が失われがちである』と結び、警鐘を鳴らしていました。

今日の病医院では、本来あるべき診療プロセスのうちもっとも重要な『問診』が抜け落ちてしまっている印象を拭えません。というか、医師は患者さんの話を「聞いて」いるかも知れませんが、「聴いて」はいないのです。データを読むのに必死なのです。あるいは、データをちょっと見たら自分だけで結論を出してしまうのです。

『聴』という字には、「耳」だけでなく「心」と「目」も入っています。「十」を指して、十本の手指と解釈することもできます。要するに、全身全霊で患者さんの話に傾聴するというのが問診です。患者さんは、つらい、悲しいという気持ちをわかってほしいと願っています。その気持ちに寄り添うようなコミュニケーションが、古いと言われるかもしれませんがもっとも大切なことだと思っています。

東洋医学の可能性

ちょっと古い話になりますが、英国の国際的に有名な医学雑誌で「ランセット」というのがあります。ちょうど20年前に同誌の編集長が公衆衛生行政の動向に関するコメントを書いています。その中に英国環境省の「医療における警戒予知原則の改訂」というものが掲載されています。

『私達は最良の科学情報を用いて、事実を正確に理解して行動する必要がある。しかしこれは、科学的に
100%解明されるまで待つということでは決してない。完治目標のために人々の健康が危険にさらされ、よりよい治療法の開発がなかなかうまく行かない状況においては、完治を求める前に予防を考えるべきだろう。科学的根拠が結論に達していなくても、起こりうる代償と公共の利益の釣り合いがとれるなら、公共の福祉を損ね得るリスクを最小限にくいとめる行動を起こす必要があろう』というものです。

簡単に言えば、東洋医学の有効性が
100%わからなくても、現在の医療が非常に大きな副作用があることがわかっている場合にはそれを避けて、科学的根拠は少ないかもしれないけれども東洋医学を選択すべきではないかということです。私が声を大にして言いたいのは、医療のプロフェッショナルたる者、本来ならばこうしたことを患者さんにもきちんと説明して治療法を選んでいただくという義務があるということです。そこで大事なことは、決して二者択一というのではなく、適材適所に両方の医療が補完しあえるような柔軟な自由選択が、医療を受ける側の権利として確立していなければいけないということです。

私は、仮に患者さんに対して医師がきちんとした情報を提供したとすれば、欧米で東洋医学が浸透してきたのも当然のことだと思います。なぜなら、西洋医学が完全なる対症療法であるのに対して、東洋医学における治療アプローチというのは、病気の本質的な原因を解消しながら本来の健康状態に戻すという修復作業を、患者さんの心身にダメージを与えぬよう配慮しながら優しく実現するという特性を持っているからです。

ですから、知性のある人ほどその可能性を理解して、自己責任の下、東洋医学を選択することになると予想されます。予防段階や治療後の期待効果はもちろんですが、治療しながら人間に本来備わっている機能を回復させていくという意味において、東洋医学は根源的な治療法といえる側面を持っているのです。それは、患者さんの肉体と精神を根本的に癒していくことのできるトータルケアソリユーションと言ってもいいでしょう。

今後、東洋医学においても徐々に科学的根拠が得られてきて、既存の西洋医学も含めた真の統合医療として発展することに期待したいものです。これが定着すれば、西洋医学では太刀打ちできない生活習慣病の改善はもちろん、不老長寿(不老長美)を目指すアンチエイジングや再生医療、遺伝的側面から予防する遺伝外来などの新しい分野も始まり、健康のジャンルはさらに広がりを持ってくるはずです。そんな明るい未来を描きながら、私は目の前の患者さんに健康を取り戻していただくための環境づくりをお手伝いしていこうと思います。

東洋医学の基本的な考え方 ~免疫・浄化・ストレス制御~

東洋医学では、その治療法に3つの重要な考え方があります。まず第1に、免疫機能を高めるという効用があることです。免疫の基本的な働きは、細胞の異常を早期に発見して増殖しないうちに排除してくれるというものです。ですから、免疫能力の優れた人は、きわめて健康です。さまざまなウィルスによる感染も抵抗力があれば最小のダメージで防ぐことができるし、万一感染しても回復が早いのです。私たちの日常生活をみても、免疫能力の高い人は風邪を引かないし病気にもなりません。

第2に、体内浄化ということがあります。英語ではDetoxification(デトクシフィケーション)といいます。私たちの体内には、あらゆる毒素が蓄積されています。鉛、水銀、カドミウム、ニッケル、アルミニウムなどの重金属は、脳、腎臓、免疫組織など、身体のいたる組織に蓄積されています。産業汚染された環境が原因のひとつですが、普段使用している調理器具や缶詰食品、歯の詰物などからも体内に摂取されています。さらに、肝臓に負担をかけるさまざまな有毒な化学物質。殺虫剤や除草剤の使用、化学薬品の摂取、食品添加物の摂取などによって体内に取り込まれた化学物質が蓄積されると神経性の異常や頭痛を引き起こします。通常、これらの毒物は肝臓で解毒されるのですが、そのため肝臓の負担が過剰になります。ほかにも、細菌そのものや細菌の産生する毒素、蛋白質代謝後の老廃物など。東洋医学には、これらの毒素の排泄を促すことで個人の健康状態をゼロベースから改善していこうとする発想があるのです。

3に、ストレスマネジメント。ストレスは私たちの健康状態に様々な形で大きな影響を与えます。ネガティブストレスは、精神的な疾病、免疫能の低下、臓器(特に心臓や血管)機能の低下といった障害につながります。しかしストレスがまったくない生活はあり得ないし、適当なストレスは、私たちのやる気を喚起し、健全な競争を促すなど、プラスに作用することもあるわけです。ですから、東洋医学が強みとするストレスを上手にマネジメントするということが非常に大切になってくるわけです。

このような東洋医学に特有の治療アプローチについて患者さんが理解したとしたら、仮にがんの摘出手術を受けたとしても、術後の治療に東洋医学を選択する人が増えるのも当然のことだと思います。でも、日本の医療現場では、抗がん剤や放射線療法を受けると健康な細胞までが痛めつけられ免疫力が極端に低下するとともに、なおさらがん細胞の成長が加速してしまうという真実について、必ずしもオープンにされていないのだなと思います。そんな気がしています。私のもとを尋ねて来られる患者さんたちのお話を聞くにつけ、胸が痛む思いがするのです。

日本でも江戸時代までは漢方が医療の主流でした。しかし明治維新以降、伝統的な医学は姿を消しました。現在でも、医学教育のカリキュラムにおける栄養学や薬草学の比重は極めて低いし、何と言っても臨床とかけ離れていて実際的ではありません。よって日本の医師には東洋医学に対する知識がなく、否定的な意見が圧倒的に多いということになります。すでに欧米ではたくさんの臨床研究データがあり、その有効性が証明されているにもかかわらず、です。

何事においても日本は米国の10年遅れと言われています。であるならば、もうそろそろ東洋医学をも含めた統合医療の重要性に気づいて、国家として米国の戦略を見習ってもいい頃ではないでしょうか。

« 前へ


NPO法人 二十四の瞳
医療、介護、福祉のことを社会福祉士に相談できるNPO「二十四の瞳」
(正式名称:市民のための医療と福祉の情報公開を推進する会)
お問い合わせ 042-338-1882