感動する医者の話2

果たして数日後、スキルス胃がんとの確定診断が下ったとご本人から報告の電話があった。しっかりとした口調で、検査を受けた病院の医師から即手術を勧められたこと、仮に手術が成功したとしても寿命3ヶ月と告げられたことを説明してくれた。家庭のこと、仕事のこと、自分がいなくなった後のことについて、奥さんと話し合い段取りするためにも一日でも生き永らえる必要がある。そう語った上で、彼は手術を受けるつもりだと言った。彼なりに熟慮した、自己責任の下での決断であることがわかる話しぶりだった。
 
まだ30歳そこそこである。夢と希望に燃えた独立開業であったはずだ。運命の残酷さを恨まずにはいられない。神戸まで往診に行ったとき、私と彼とのやりとりを奥の部屋から心配げに窺っていた奥さんの姿と、時折聞こえてくるまだまだあどけない子どもたちの笑い声が、今でも鮮明に耳にこびりついて離れない。心中いろいろな思いが錯綜しているであろう若き歯科医が、自分という人格を見失うことなく言動する姿が逆に痛ましく思い出されてくる…。
 
スキルス胃がんは、胃粘膜の表面が盛り上がったり潰瘍を作ったりといった変化が乏しいため発見が遅れやすい。それでいて進行がとても速く、見つかったときには手術ができない状態になっている患者さんも多く、胃がんの中で最も悪性度が高いがんだ。
 
アナウンサーの逸見政孝さんや歌手の堀江しのぶさんもそうだった。とくに逸見さんのケースは、胃全体ばかりか胃壁を突き破ったがん細胞が、腹腔内に散らばって増殖していた末期の状態であったにもかかわらず、再三の大手術がなされたことの是非について、医学界を揺るがすような大論争にまで発展した、いわくつきのがんである。
 
今日では、末期のスキルス胃がんで、しかも余命3ヶ月という条件下で摘出手術を行うべきかどうかの判断は難しいものがある。手術してもしなくても結果は変わらないどころか、なにもしないままでいたほうが幸せだったということさえ多々あるのだから。しかし、逸見さんの例を見るまでもなく、当時は「がん=手術」という“常識”が、医師側にも患者側にも浸透しきっていたのである。
 

  患者本人と家族が決めた手術である。私にできるのは、その選択が良かったと思えるような予後(術後の経過)を応援することだけしかない。具体的には、術後の抗がん剤治療の副作用を最小限に抑えられるよう漢方薬を煎じて飲んでもらうことだ。抗がん剤はがんの転移や再発を防ぐための化学療法だが、反面、がん細胞以外の正常な細胞まで傷つけてしまうため、患者はみな、吐き気、脱毛、皮膚のただれ、関節の痺れ、喉の渇き、味覚変化等の副作用に悩まされることになる。

(続く)

感動する医者の話1

もう10数年も前のことになる。診察の合間、つかの間の休息に錦秋の比叡山を眺めていると、女性スタッフから声がかかった。かつて通院されていた女性からの電話だった。
実は折り入って相談があるとおっしゃる。なんでも娘婿の様子がおかしいと言う。
 
 「顔を合わせるたび胃薬をくれっていうのです。かれこれもう一年くらいになるものですから、一度病院で診てもらったらどうかと再三勧めるのですけど…。本人は歯医者として独立したばかりで、休むわけにはいかないと。3人いる子どもたちもまだ小さくて、いちばん上がやっと小学校に入学したばかりなものですから・・・。何か悪い病気だったらどうしようと心配でならないんですよ。どうしたものでしょうか???」
 
 受話器越しに、娘さんの家庭を案ずる親心がひしひしと伝わってくる。すがるような思いでこの電話をかけてきたにちがいない。一方、娘婿の立場になると、たかだか胃の調子が悪いからといって立ち上げたばかり歯科医院を簡単に休むわけにもいかない。開業当初の苦労は、私も経験しているだけに手に取るように理解できる。
 
この比叡山のふもとにあったログハウス調の喫茶店を買い取って、もう後戻りできないのだというプレッシャーのなかで開業準備に追われていた頃のことがフラッシュバックした。そしてつぎの瞬間、自然とこんな言葉が口をついて出た。
 
「それはそれは、ご心配なことでしょう。なんでしたら一度、往診に出向いてもよろしいですよ。」
 
そう言い終わるか終わらないかのうちに、お相手は神戸、私は大津であることを思い出した。でも、そんなことよりも、せっかく私を頼ってご連絡をいただいたこのご縁を受け入れるのが自然の摂理ではないかという気になっている自分がいた。患者さん本人が来られないのだから、自分が行くしかないではないか。
 
「ありがとうございます。何とかお願い致します。本当にありがとうございます。」
受話器を耳に押し当てながら、繰り返し深々と頭を下げているのが見えるようだ。恐縮しまくっているかのような相手を制して、早速、ご本人と協議して往診の候補日時を挙げてくれるようお願いして受話器を置いた・・・。
 
翌週、片道4時間をかけて神戸まで出向き、歯科医院の診療終了を待って血液検査を行った。腫瘍マーカーの数値を測るためである。身体のどこかに腫瘍ができると、血液中に、たんぱく質、酵素、ホルモンなどの特別な物質が増えてくる。それを測る簡易検査が腫瘍マーカーである。
 
腫瘍マーカーは、その数値によって、腫瘍の存在や、腫瘍が良性か悪性(がん)か、どの臓器にがんができているか等を絞り込むための検査だ。通常、その他の検査とのコンビネーションで行われる。また、悪性腫瘍の治療効果の測定にも用いられる。
 
しかし、逆に腫瘍マーカーの産生量が明らかに多いようであれば、この患者さんが進行性の胃がんであることはまずまちがいないだろう。電話をいただいた段階でそう推察された。だいたい、胃の不具合が1年も続くのは普通ではない。腫瘍マーカーが明らかな異常値を示したとき、彼は小さく頷いたように見えた。私は、神戸ではがん治療の最高峰とされる病院を紹介した。とにもかくにも精密検査を受けないわけにはいかない。
 

(続く)

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