病医院にいま求められること


これらの中でも目玉と言えるものはなんだろうか。さまざまな苦痛や不安を抱えてやってくる患者さんたちに提供すべき最大のサービスとは、自院の「空気・空間」そのものではないだろうか。で、この空気や空間を作り上げるもの。それは言うまでもなく、その場で働いているスタッフひとりひとりに他ならない。医療機関にとっては、「人こそが目玉商品」であるべきだ。

働く人の姿勢が、その医療機関の空気をつくる
働く人の笑顔が、空間に和みをつくる
働く人の温かい声が、患者さんを勇気づける

そういうことではないだろうか? 診察室の向こう側で、どんなに腕の立つ医師が待っていたとしても、そこに辿り着くまでに接するスタッフの言動がそっけないものであったとしたら、医師の診療は本来の評価を失うことになるのだ。

そういう意味では、患者(特に、新患)が苦痛に耐えながら貴院

のドアを叩いたときに最初に接するスタッフ、つまり受付の対応は極めて重要になる。受付に対して患者がどのような印象を持つか。これによって、患者さんの貴院に対するスタンスが決まるのだ。ここでマイナスのポジションを取られたら、恐らく何をやっても患者を満足させることはできないだろう。

当然のことながら、患者はひとりひとり皆異なる存在だ。患者さんの心を掴もうと思ったら、患者ひとりひとりに関心を持ち、患者さんの情報を集め、個別の対応をしなければならない。そうした対応をうけた患者さんは、かなりの確率でロイヤルカスタマーに変わっていくという事実を私はデータとして把握してきた。(続く)

言葉が持つ力

 

言葉とは、人生を180度転換させることのできる最強ツール。
前向きな人生を過ごすためにもうひとつ忘れてはならないもの。それが言葉。
言葉が持つ力。私たちは、感じて、考えて、行動する。
このすべてのプロセスを、私たちは言葉で行っている。
自問自答するのも、自分を励ますのも、覚悟・決断するのにも、言葉がなくてはならない。
 
こんどはちょっと太宰治に登場してもらう。時代を超えて女子学生の好きな作家トップに君臨し続ける太宰はこう言っている。
 
愛とは言葉だ。言葉がなけりゃ、この世の中に愛はなくなるんだ。愛の実体に言葉以外の何かがあると思ったら大間違いだ。聖書にも書いてある。言葉は神なりき。これに命あり。この命は人の光なりき。本当に愛しているならば、黙っているというのは独りよがりだ。好きと口に出して言うのは、そりゃあ誰だって恥ずかしい。でも、その恥ずかしさに目をつぶって、怒涛に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに愛の実体があるのだ。黙っていられるのは、結局その程度の愛なのだ。恥ずかしくて言えないというのは、つまりは相手より自分を大事にいるのだ。怒涛へ飛び込むのが、断られるのがこわいのだ。本当に愛しているならば、たとえ無意識にでも愛の言葉が出るものだ。どもりながらでも。たった一言でもいい。切羽詰った言葉が出るものだ。
 
ここで、「言葉」とか「話す」という行為の本質を考えてみたい。私たちは一体何を話しているのか。言語学的にいうと、私たちは言葉というものを組み合わせて話している。では、言葉とはどのようにできているか。それは、日本人であれば仮名「あいうえおかきくけこ…」。昔であれば「いろはにほへとちりぬるを」の平安仮名。

私たちは、この48文字を紡ぐことでありとあらゆる感情や理屈を話している。これは凄いこと。私に言わせれば、この文字たちは無限の可能性を秘めた48色の魔法のクレパス。

で、この文字たちの配列を見ていて気づいた。平安仮名も現代仮名も「愛」から始まっているということに。
(*「いろ」は色。人間模様の儚さを象徴する最たるもの、それが「愛」であると解釈した)

そう。話すという行為の原点は愛。愛が “Ⅰ” ならば、話すとは自分自身の映し鏡。愛をeye、心眼とみれば、話すとは心の目で見たものを伝えること。洞察力。洞察力とは、普通の人には見えないものを感じる力、気づく力、見抜く力。


つまり、話すということは、相手のために良かれと思って発信する魂のメッセージ。自分の話を聞いてどう感じてほしいのか。どう行動につなげてほしいのか。こうしてほしいから、だからあえて今ここでこの話をしているんだよという明確な意思を持って、考え抜かれた自分自身の言葉で相手の精神に影響を与えること。

だから、原稿を読むなんていうのは、私にすれば論外の外。米国の歴代大統領と比べて日本の総理の演説が無機質で心に響かないのは、どうもここらへんに原因があるように感じられてならない。

« 前へ


NPO法人 二十四の瞳
医療、介護、福祉のことを社会福祉士に相談できるNPO「二十四の瞳」
(正式名称:市民のための医療と福祉の情報公開を推進する会)
お問い合わせ 042-338-1882