言葉と人間形成
部下にとって、自分の持ち味や成果を理解され評価されることは、何よりの感激であり自信となる。また、自分の間違いや未熟さを指摘されることで反省や反骨心が芽生え、上司や組織のためにも「よぉし、やってやろう」という意欲に駆り立てられるものではないだろうか。
ここに、異動を控えたある営業マンがいる。入社以来5年にわたり指導を受けた上長に挨拶に出向いたときのこと。
「得意先の部長から電話があったぞ。お前が担当になって、お宅の会社が変わったって思ったそうだよ。あの営業マンなら自分のところも変えてくれるかもしれないって期待を持ったって。だから今ここでお前を代えられては困るって泣きつかれたよ。俺も営業現場は長いけど、あんなことを言われたのは初めてだ。お前ももう一丁前だな。がんばれよ」。
そう言ってポンと方を叩かれた。
その言葉に、営業マンは全身の血が沸き立ち、歓びに震える思いがしたそうだ。同時に、入社以来のさまざまな出来事が思い出され目頭を熱くするとともに、新天地での更なる飛躍を誓った。
ある人がある時に発した言葉がどんなに人の心を揺さぶったとしても、別の誰かがそれを用いたときに同じように効果を生むとは限らない。それは言葉というものの本質が、表層的な語彙的なものだけではなく、その言葉を発した人間の世界全体を否応なしに背負ってしまうところにあるからだ。
丁度一年前、人間国宝の染織家・志村ふくみさんのパーティに参加する機会があった。その時彼女が着ていたのは、何とも形容しがたいような桜色の糸で織られた着物だった。そのピンクは、淡いようでいて燃えるような強さを内に秘め、華やかでありながらしっとりと落ち着いた深みがあり、見るものの目と心を吸い込むようだった。
素人の気安さから、これはきっと本物の桜の花びらから取り出した色に違いないと聞いてみると、なんとそれは、桜の花びらではなく樹皮を濾したものだった。あの黒くてゴツゴツした木の皮から、あんなにも美しいピンクが生まれることは驚きだった。しかもそれは、一年中いつでも取れるわけではない。桜が開く直前のほんの一二週間。厳選された山桜の樹皮を染めてこそ、あの上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ。
この話を聞いて、私は地下鉄が一瞬地上に出たときのような不思議な感覚に襲われた。春先まもなく咲き出でんとしている桜の木が、花びらだけではなく木全体で最上級のピンクを出そうと懸命に生きている姿が浮かんだからである。
花びらのピンクは、幹の、枝の、根っこの、樹皮の、樹液のピンク。でも私たちの視界に入るのは、桜の花びらに現れたピンクでしかない。桜の木全体の、一刻も休むことのない全身全霊の生命活動のほんの一端にしか過ぎない。
そう考えると、これは私たちの言葉の世界と同じではないかとハッと気づかされる。私たちが話す言葉ひとつひとつは、桜の花びら一枚一枚。そのひとひらの背後には、そのひとひらを生み出した大きな幹を背負っている。一見ささやかな一言の中にある大いなる意味が実感されてきやしないか。こうしたことを念頭に置きながら、言葉というものを、話すという行為を考える必要があるのではないか。
「お前も一丁前だな」
あの時営業マンを感動させた冗長の一言は、その上司というひとりの人間全体を表現する一枚の花びらだった。部下といかに向き合い、いかに自信を持たせ、いかに育てていくか。時に指導し、見守り、評価し、時に一緒に考え、共に壁を乗り越えていく。そんな意識と言動があってこそ、そんな人材育成観と行動哲学があればこその美しい花びらなのだ。
私たちは、自分が発する一言一句が、自分という人間の人格や生きざまそのものを背負ったものであるという自覚をもって語りたいものである。本当の自分自身を現わす本当の言葉を。木全体を表現する一枚一枚の花びら。その一枚にこめられた心を大切にしたい。そんな一言を届けたい。そうした心を受け止められる心を持ちたいものだ。
さあ。頭の中に、心の中に、体じゅうで咲き誇るピンクの桜たちをイメージしてみよう。桜の木々の息吹が、大自然の生命のメッセージが聞こえてくるだろうか。そしてそこには、風に舞う桜吹雪のなかを颯爽と闊歩する私たちが見えるだろうか。
みなさんの人生に、満開の春が訪れることを願い信じ、そして祈っています。