医療経営者に求められる時代認識
昨年12月、失業中の若者の焼身自殺に端を発したチュニジアの「ジャスミン革命」。市民の反政府運動により、23年以上も続き磐石と見られていたベンアリ政権はあっけなく崩壊。この衝撃はアッと言う間にアラブ諸国に広がった。なかでもエジプトでムバラク政権が転覆した事実は、中東の多くの人々に「われわれの国でもできるかもしれない」という大きな希望を与えた。
年が変わると、2月22日にはニュージーランドのクライストチャーチでM6.3の大地震が発生。30名近い志高き日本人が犠牲となった。そして、この悲しみが癒える間もない3月11日、東日本大震災は起きたのである。東北地方太平洋沖で起きたM9.0の大地震とその影響による大津波は、沿岸部の多くの町から尊い生命と暮らしを一瞬にして葬り去った。さらに、福島第一原子力発電所の事故による放射能災害というおまけまでつき、まさに日本中が解決への出口を求めてもがき苦しんでいる状況にある。
これら一連の政変や自然災害の特徴は、フェースブックやツイッターといったソーシャルメディアが大きな影響を及ぼした点だ。政権がいかに言論を統制しようとしても、草の根的なネットの情報網でその壁を突破し得ることが示された。また、携帯電話が機能せず家族らの安否確認がままならなかったり、被災地の実情がなかなか把握できなかったりという非常時にも、ソーシャルメディアが威力を発揮することが明らかになった。これからの時代、民衆がソーシャルメディアを通して積極的に意思表示する流れには逆らえまい。国家には大衆の意を酌んだ政治への脱皮が求められるのだが、長期にわたり迷宮を彷徨うわが国の政治の体たらくを見るにつけ、二大政党の首脳たちの思考と言動には首を傾げざるを得ない。
もうひとつ大きいのが、極めて近いところで発生した大惨事が国民一人ひとりにもたらした意識変化である。今回の大震災を契機に、私たちの価値観や人生観は確実に変わった。自分にとって本当に大切なものは何なのか。悲しみのどん底にいる人たちのために、自分に何ができるのか。自分はなぜこの時代に生まれ、生かされているのか。そして思い知らされた、人類では到底抗うことのできない大自然への畏怖。そんなことを改めて自問自答した読者も多いのではなかろうか。筆者の周囲でも同様である。
従来の資本主義のベースにあった価値観が変われば、市場が変わることは十分に予測できる。となれば、経営者の事業観やビジネスモデルも変わらざるを得ないわけで、今年2011年はまさしくパラダイムシフト元年として位置づけられる。幸か不幸か、東日本大震災によって日本という国は全世界の注目の的となった。政治的経済的レベルの話だけではなく、日本人の生き様自体が世界中の人たちの一大関心事となったのだ。大仰に言えば、復興に向けたこれからの日本人の歩みが全世界に大いなる影響を与えていく、そんな歴史的大転換の真っ只中に私たちはいま生かされているということを再認識すべきであろう。
さて、連日報道される被災地の様子には、地元医療機関と協力しながら被災者の健康面をサポートする医療者たちの姿が映し出される。都道府県の災害派遣医療チーム(DMAT)、日本医師会災害医療チーム(JMAT)の他、国境なき医師団(MSF)など医療関連の非政府組織(NGO)から災害医療の経験を持つ医師や看護師が派遣され、地元医療機関と協力して当面の対応に努めている。筆者の知り合いの医師や看護師たちも、それぞれの地元での活動をやりくりしながら、被災地に出向いて自分たちにできることに全力を注いでいる。とくに生活習慣病疾患を多く抱える高齢者にとっては、在宅医療をはじめプライマリーケアを専門とする医療者たちの存在は実に心強いものがある。不運にも窮地に陥った人たちを、少しでも善くしようという気持ちに支えられた彼らの医療活動には頭が下がる思いである。
一方で、2001年の第一次小泉内閣以降、構造改革の矛先が向けられている医療だが、2015年における地域医療の青写真はすでに概ね固まっていると考えていいだろう。自民党政権時代の経済財政諮問会議、社会保障国民会議等でアウトプットされた方向性は、民主党政権下においても踏襲されたし、今後も菅内閣の顛末如何にかかわらず、わが国の医療財政の窮状からは大きな軌道修正は考えられまい。
そのなかで特に重要なのは、これまでの審議機関が一貫して言及してきた「現行医療のムダ排除と医療品質の向上」という点である。これ即ち、ムダな医療に投下されている医療資源を本当に必要な医療分野に最適再配置しようということなのだが、問題は『ムダな医療』とは何なのかが曖昧なまま今日まで来てしまったことである。が、実際には曖昧どころか具体的に抽出済みと考えたほうがよさそうだ。どうやら医療提供者サイドへのインパクトを考慮してリリースのタイミングを計っている感がある。しかし、2012年のダブルインパクト(診療報酬と介護報酬の同時マイナス改定)を含め、俎上に挙がった『ムダな医療』を淘汰するシナリオが着実に展開されることは間違いないだろう。
誤解を恐れずに大胆予測をさせてもらえば、「大規模急性期病院の局所集中化」・「慢性期病医院の絞込み」・「在宅死インフラの整備」の3本柱となる。10年近い論議の過程で、急性期医療における箱物と専門医の分散、慢性期医療における必ずしも有効でない検査・投薬・手術、救急搬送コストの問題が絶えず指摘されてきた。が、医療における秩序の維持は医療提供者側に委ねられ、結果的に今日の医療偏在と国民医療費の膨張を招くこととなった。
2002年以降、診療報酬の微少なマイナス改定が繰り返されたり、介護保険という高齢者医療向けの別の財布が作られたり、悪評高き特定健診・特定保健指導が導入されたり、さまざまな医療費抑制措置が講ぜられたものの、国民医療費は毎年1兆円ずつ跳ね上がり奏功しなかった経緯がある。そこで団塊世代(昭和22年~昭和24年に生まれた世代)がすべて65歳以上となる2015年に照準を合わせ、形骸化した『健康日本21』に代わる国民啓発運動が準備されているとの噂も聞こえてくる。そこでは、がんをはじめとする生活習慣病を患った場合の、医療との然るべき接し方を国民に諭していくようだ。
つまり、霞ヶ関や永田町では、35兆円超にも及ぶ国民医療費のうちかなりの金額が、さして意味のない医療に費やされているとの認識を持っている。しかし、これを改めるためには、僅かな診療点数のダウンだけでは状況は変わらない。そこで医療利用者側に情報提供することで、「医師に盲従するのではなく、自分の健康を守るために医療との距離感を勉強せよ」という教育を行っていくのである。具体的な標的となるのが、検査漬け、薬漬け、無駄な手術、延命治療等であろうか。現在の後期高齢者と違い、自分の価値観に拘り、納得いかない限り購買しないという団塊世代の行動気質を見込んだ、いわば病医院からの患者剥がし作戦と言っていいだろう。
これが現実のものとなれば、従来と同じ医療を提供していたのでは患者単価が落ちるばかりか、患者数そのものが減ってしまうことは明らかだ。規模的あるいは機能的に中途半端な病医院は収益が落ち、職員の雇用を維持するためには何かしらの手を打たねばならなくなる。そこで、夜間救急、在宅医療、母子医療等、当該地域で本当に不足している分野にシフトせざるを得ない状況を作っていく…。これが2015年に向けたわが国医療の再編シナリオである。
この仮説の下で、地域医療に携わる経営者が真っ先に取り組まなければならないのは、地域の人たちが健やかで幸せに暮らすために、みなさんの病医院が何をすべきかを今一度再定義することである。現在提供している医療サービスは、真に患者のことを考えてのものだろうか。本当に心の底からそう言えるだろうか。血糖値や血圧の検査結果だけを見て、(機械的に)一律な処方を行ってはいないだろうか。目の前の患者に対して、自分自身や家族が同じ症状を発した場合と同じように指導しているだろうか。
従来通りのやり方だと、全患者数の殆どを高齢者に依存している病医院は、この5年間でかなりの経営的ダメージを受ける可能性が高い。情報武装した団塊世代の高齢者とは、従来の医者と患者の関係は成立しづらい筈だ。上下関係ではなく、ともに症状改善や健康維持を目指すパートナーのような関係が求められる。そこで重要となってくるのが、患者にとって価値ある情報を敏感に察知し、それをわかりやすく、かつ感じよく伝えること。医師をはじめとする全職員がこれを理解し、それぞれの持ち場で実践していく必要がある。
期せずして、霞ヶ関の医療再編シナリオは、全世界規模での秩序の再構築や自然の摂理に対する畏怖の息吹とシンクロすることになった。そこから汲み取れるあるべき地域医療とは、これまでのような化学的な対症療法ではなく、患者に本来備わっている筈の自然治癒力や免疫力を目覚めさせる、自然に逆らわない医療である。従来型の総花的な医療を提供する病医院は中学校区にひとつかふたつあれば十分という認識が窺える。とくに競合環境の厳しい都市部では、その地域になくてはならない存在として認知されない限り、何かしらの業態転換をせざるを得ない時代がもうそこまで迫っていると考えたほうがいい。
これからの病医院経営の本質は地域との関係を強化・深化させていくことに他ならない。そのために真っ先に取り組むべきことは、患者や地域とのコミュニケーションのあり方を組織全体で共有・実践し、それを具体的な業績に結びつけていくことである。
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